静かな年越し
新たな年を迎えるまで残り2時間を切ったところです。
2022年に大事な試験の予定がある私は、年末年始は帰省しませんでした。
年末29日から年明3日まで、朝8時から夜12時までの勉強合宿を高校時代の友人とzoomで開催しています。(今は休憩がてらサボっている)
そのこともあって、今年は実に静かな年越しになりそうです。
物心ついた時から、大晦日は家族でテレビを囲んで紅白を見続けてきました。今年はテレビすら付けていない状況です。今頃実家では、私以外の家族は同じようにしているのでしょうか。
多くの人はのんびりしているのだろうなかで、勉強しながらシメシメと思いながらも、幼い頃に感じた、大晦日の夜のあのワクワク感を押し殺しながら黙々と読書をするのは、何とも変な感じです。
人間が生きるにあたって、カレンダーも行事も必要ありません。もっと言えば、時計も。
時計の針が夜の12時を過ぎたところで何も変化は起きないし、人間がそれに意味付けをしているにすぎない。
それで言うと誕生日も同じですよね。
生れてから20年の月日が流れたからと言って、いきなり「大人」に昇格できる訳でもなく、子供のような大人も、大人のような子供もいるわけで(もちろん何をもって大人/子供というのかも定まっていない)。
意味付けをされた時間に関係なく、時間は流れていき、死にまた一歩近づく。このように考えると、やはり成長の歩みを止めてはならないと改めて感じる訳です。
「大晦日くらいゆっくり」となりそうな自分を思いとどまらせるのは、このような理由からです。
しかしながら、誰かと年明けを迎えるのは本当に良いものです。
幼いころは、0時を迎える前に眠たくなっていたのが、いつしか姉と2時くらいまで夜更かしをするようになっていたり、友達と過ごしていたり。
毎年自分の変化に合わせて、新年の迎え方が変わることなんかも、楽しみ方の一つでした。一年に一回しかないイベントなこともあって、「あの年は、、」という振り返る時の目印にもなりやすいですよね。
今年、一人で新年を迎えようとしているからこそ、誰かと一緒に年越しをする有難みが分かるような気がします。
ただ何となく、大晦日だから休もう。というのではなく、その日その時もただ過ぎていく時間の一コマに過ぎないということを自覚したうえで、自分なりの新年の迎え方をすると、また少し違った一年を過ごすきっかけになるのかもしれません。そうなって欲しい。時刻はまもなく23時。皆様良いお年を。