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益江1:36「ラストモーメント・益江町」『星霜輪廻』

 月面都市「コペルニクス」。クレーターの窪地内に築かれたこの未来都市は、地上からもその容貌が確認できるほどに中層ビルが林立している。そんな窪地の最底辺からスッと伸びる世界連合本庁舎――通称〝ボイレ〟が存置する世界の中枢都市たる同地には、商社マンを始めとした数多の職種のエリートたちが通い詰めている。そんな彼らが、街頭のテレスクリーンで茫然と眺めているのは、つい数分前から始まったばかりの国際逓信機関の機関長、ヘルマンの会見だった。
『――ただいま、御指摘に与りました問題については、当機関一丸となって原因究明に取り組んでおりますので、具体的な回答については差し控えさせて頂きます』
 会見場に詰めかける記者たちの罵詈雑言の混じった質問を、回答になっていない回答でかわしたつもりでいるヘルマン、という地獄の図式が映像として全世界に流れている。
「哀れな」
 赤信号で停車中の公用車の窓から、街頭のスクリーンに視線を向けるのは、連合桑茲府官房長官のシュリッツだった。
「台下の権威を蔑ろにし、私腹を大いに肥やした天罰を受けるがいい」
 シュリッツの横で同じように画面上のヘルマンに悪態をつくのは、宇安保の理事長であるスペンサー。長らく文系派寄りだった宇安保だったが、前任者の横領罪による公職追放・人格削除を受けて就任したのがスペンサーだった。三期二七歳のスペンサーは、二期までは男性の肉体を享受していたが、三期への転生にあたって書類の取り違えにより女性になってしまった経緯を持つ。そんな彼女の政治的姿勢は、大義のある執政。
「なにやらゲートウェイで身動きの取れないLC社の関係者がいたので例外措置として入都させました」
「よろしい。逓信の連中はきちんと留め置くように」
「ええ、もちろん」
 中道派とされていたシュリッツが、ヘルマンに悪態をつくほど姿勢を変化させた理由。それは単に、文系派の驕りの態度に不満を燻らせていただけの話ではなかった。
「それにしても、長官がまさかスタンスを破るとは」
 半開きだった車窓を閉めながら、スペンサーは首を傾げる。「不思議なお方だ」
「不思議、つまりヘルマンのお陰で官房長官の地位に就けたのに、ということかね」
「ええ、中道派とはいえ紛れもなく文系派の息のかかったお方。率直に申し上げて、私は貴方を信用しておりませんでした」
「さもあろう、私は常にヘルマンの椅子に向き合いながら会議を取り仕切ってきた。しかし、私はそういう態度こそが旧態依然とした派閥政治を生み出すのだと悟ったのだよ」
「そのような洞だらけの言い分、誰も信じてはくれないでしょう。主語を変えれば、その言葉の矛先は理系派へも向かいますから」
「もしそう捉えられてしまうのなら、理系派も同じことかと落胆するだけの話。少なくとも文系派よりは、始祖公の理念に漸近する組織に生まれ変わることができると信じておるのでね」
「まあ、判断をつけるのは私ではありません」
 銀縁の眼鏡を外して、スペンサーはか細い眼をジッとシュリッツに向けた。
 本来、桑茲府官房長官は桑茲司に次ぐ権力を持っている。かつて、桑茲司に万一のことあらば、桑茲司が担っていた権限の殆どを官房長官が緊急避難的に受け継ぐことが『協調協約憲章』には定められていた。その権限の強大さ故に、弥神如月とフレイ官房長官との間で権力闘争が繰り広げられたことは至極当然の成り行きだった。
「官房長官はあくまでも桑茲司を補助する立場に過ぎない。フレイ・ビョルンソンの専横体制への反省から、官房長官はナンバーツーの権限を保有しながら、桑茲司の裁可なしでは機能し得ないという奇妙な立場に変化した。桑茲司台下に万一のことあらば、官房長官も共に殉じよというのが改正条項の文句だよ」
「誰も、長官の変わり身の早さを責めているのではありませんよ……。強いていうのなら、文系派の失墜が思いのほか早かったということでしょうから」
「相変わらず嫌味たっぷりの物言いだが、まあいい」
 シュリッツ長官とスペンサー理事長を乗せた公用車が向かう先、そこはまさしく騒動の渦中に踏み込みつつある円卓ビルの中央会議場。月面都市の各区を警邏・監視している警務官を指揮する同施設には、当然のこと三人の行政官も詰めて業務にあたっていた。
「ニコライ君に紹介しよう、〝動議〟を成立させるには力が必要だからね」
 シュリッツの見据える予測、即ち文系体制派が陪臣一二人会で反撃に出るというものだった。例え文系派による統治体制の基盤に揺らぎが生じたとしても、一二人会で多数派工作に成功すれば世界連合としての意志は専ら文系派マターとなり、ヘルマンの命脈は保たれる。
「動議、ですか。もはやヘルマンに靡く陪臣はダッチ以外考えられませんが」
「陪臣の中には態度を決めあぐねている人も少なくない。ファクタ氏はじめ政争を忌み嫌って敢えてヘルマンと握手を交わした日和見主義の方々にとって、今回の騒動はきっと悩みの種であろうから」
「なるほど、背中を優しく押して差し上げると」
 シュリッツのそうした文系派の勢力盛り返しの懸念を払拭する切り札こそ、動議の発動だった。世界連合の諮問機関として規定されている陪臣一二人会は、桑茲司による円滑な政権運営に助言を行う委員会という位置づけである。その助言の内容を決める同会議では、議長以外の議員、即ち陪臣によって定例会議の議題とは別の提議、即ち動議を発動することができる。動議を成立させて正式な議題に上げるには、提議した人物以外に議長を除いた委員の過半数である六人の賛成者が必要となる。さらに『陪臣一二人会附帯規則』によって、一度否決された動議は再び審議に上ることはないという〝一時不再議〟の原則が例外的に適用されると解釈されており、過去に否決されたことのあるヘルマンとダッチに対する懲罰動議を行うことはできない。
「我々がこれから取るべき行動とは、詰まるところまず敵を作り、そして味方を作ることにあるのだよ。君が提議を行い、羅啓明行政官とホアン理事長で二人。残り四人、ニコライ行政官とファクタ機関長を見込んだとしても、残り二人なのだよ」
 現在陪臣の地位にある者のうち、文系派はヘルマン・ハイデルベルク国際逓信機関機関長、ダッチ・ファン・デ=リーデル人智継承教育科学機関機関長、プランダー・マコーン自治監理局局長、ニコライ・エジョフ内務市民委員会行政官の四人。一方、理系派はホアン・チ・ルーエン社会道徳保全機構理事長、マシュー・ヴァン・スペンサー航空宇宙運輸安全保安機構理事長、羅啓明内務市民委員会行政官の三人。中道派として文理対立の外側にいるのは、ウォルター・ヨゼフ・シュリッツ桑茲府官房長官兼内務市民委員会行政官、ファクタ・マルグラーヴィオ世界民政向上機関機関長、ヤスノリ・ウィステリア桑茲司人事院人事総裁、シャルル・ブランシュ・ナン再開発機構主席理事長の四人。陪臣として列席しているものの政治的影響力を持たない者もいて、ハワード・セシル・ウォルポール国際財務調整協同機構第一大蔵卿がそれである。全一二人で構成されている陪臣一二人会で繰り広げられている椅子取りゲーム、常に文系派が幅を利かせてきた同会において、反文系派の動議を成立させる難しさを、理系派は味わい続けてきた。
「あそこはどうです? 再開発機構、どういうわけか前理事長の転生以来鳴りを潜めている」
「シャルル主席理事長、そしてヤスノリ総裁。これでようやく六人かね」
「ええ、そうです。ただし気の迷いを起こさなければの話ですがね」
 シュリッツの苦虫を噛み潰したような表情は、公用車を降りても尚続いたままだった。数人程度の職員に出迎えられた二人は、一路中央会議場へと向かっている。
「私が知る限り、内務市民委員会が政局の行方を左右する程の影響力を誇示する事態は螺旋開綻抗争以来……実に一世紀弱を経て再び日の目を見ることになるとは」
「なるほど、前任者・・・以来の。それでこそ鍵を握るのがニコライ行政官・・・・・・・であるべきでしょうな」
 今や内務市民委員会が指揮・管轄する警務官は行政官の意向を受けて各月面都市に相当数が配備され、事実上の戒厳令布告下の状態が続いている。
「前任者の暴走があってからこの方、内務市民委員会の威勢は地を這うばかりだったが」
「ええ、その所為もあって行政官の職には文理両派から一人ずつ、そして中道派たるべき官房長官の計三人が就くものと定められてしまいましたから」
「しかしあくまでもそれは慣習に過ぎん。平時においては公平公正な判断が求められるが、今はその時ではない。社会正義が果たされるとき、改革行動を標榜する者たちは常に一枚岩でなくてはならない」
「要約すると、彼らに新しい稼ぎ口を紹介しなければ、我らの改革は成功しないということでしょう」
 スペンサーの言葉に、シュリッツは重苦しい咳払いで注意を促す。通路の先に佇んでいたのは、ニコライ・エジョフ行政官。その背後には、羅啓明行政官の姿もあった。
「臨時の中央会議でいらっしゃったのかと思えば、お客人もご一緒とは」
 穏やかな表情とは裏腹に、ニコライはスペンサーとは目を合わさずにジッとシュリッツを見つめている。
「ああ、紹介しよう。〝提議者〟スペンサー君だ」
 そんなニコライの様子には気にも留めず、シュリッツはあくまでも自分のペースで話を運ぼうとする。提議者、と敢えて付け加えたことによって、シュリッツは自らの行動の意味を理解するよう、暗にニコライに求めた。
「……こちらに」
 ニコライの案内に沿って、一行は中央会議場へ足を踏み入れる。楕円形の会議場の中央には「三連星儀」と呼ばれる大きな地球儀・月球儀・火星儀が並立して鎮座し、四方に向けて各辺一枚ずつヘッドアップディスプレイが立っている。委員席も同様に楕円形に並んでいて、常任委員の定員は一〇名、非常任委員の定員は二〇名の計三〇名の席が中央の三連星儀を囲うように設計されている。
「行政官はどこにお座りになるのです」
「私は真ん中、上の席だ」
 シュリッツが指さす先、それは会議場の一つ上のテラス。会議場に突き出るようにして設けられている「行政官席」は、正面入り口から三方に一つずつあり、向かって右が文系派行政官席、左が理系派行政官席、そして正面の席が官房長官席となっている。
「ふむ、ではニコライ行政官は右ですかな」
 スペンサーのにやけ顔を、ニコライは見ようとしない。
「さて、臨時会議を執り行う前に、お耳に入れておきたいお話が」
「ほう」
 シュリッツが耳を傾け、ニコライがそっと顔を近づける。スペンサーも、興味のないフリをしながらしっかりと右耳を二人に向けている。
「……ヘルマンがシンプレックス通信を中断させました」
「ほう」
「どうやら白鷺ごと雲隠れをするようです」
「首尾はどうなっている」
「先ほど誉志課長と連絡がつきました。明日のローンチウィンドウに合わせて脱出する手筈に」
 するとシュリッツは、殊の外表情を緩ませて、そっぽを向いているスペンサーを手招いた。
「何でしょう」
「明後日、地球からの客人がゲートウェイに到着する見通しだという。ニュートの方々には、よろしくお取り計らい願いたい」
「あー、ええ、ええ。閣下もご安心ください、マリー局長には充分に言い聞かせてますので」
「ええ、どうも」
 明らかにニコライはスペンサーを毛嫌いしているようだった。彼の素っ気ない対応と決して目を合わせようとしない態度をみて、スペンサーは存外扱いやすい人間だとさえ感じていた。その考えがスペンサーの飄々とした態度に現れていることは、傍らで一連のやり取りを聞いていた羅啓明が一番よく知ることだった。
「陪臣会の招集は明日ですかな」
 手すりに寄りかかりながら、ニコライは天井を仰ぎ見る。
「それはそうだろう、既に桑茲司台下はご就寝されている。御前会議での動議でなければ、彼らに与えるインパクトが軽くなってしまう」
「身の引き締まる思いですな」
 しかし、とスペンサーは首を傾げる。
「ならば今回の臨時会議では何を扱うおつもりなのでしょう、非常時の対応として、後学の為にお教え願いたい」
「教えるも何も、君は会議を見学するではないか。生憎本題に入る前に種明かしをしたい性分ではないものでね」
「良いではないですか。この臨時中央会議の目的が戒厳令布告を宣言する・・・・・・・・・・為のものだと教えてしまっても」
 ニコライの口の滑りはもはやわざとらしいものだった。シュリッツも同様に、口角を上げてスペンサーを呼び寄せる。
「すでに戦いは始まっている。スペンサー君なら分かるだろう、戒厳令は月都の治安維持のためには不可欠なカードなのだよ」
 ニコライはじめ行政官の思惑は、警察権を存分に発揮して月都の治安を維持することにあった。特務課は地球に出払っていて、残るは警察権を体現する警務官たち。彼らを動員して、名目上は治安出動となるのだが、実際は文系派の情報収集を阻害することにあった。
「ではその様子、見学席からしかと拝聴させて頂きます。では」
 羅啓明に移動を促しながら、スペンサーは茶髪ストレートの髪を靡かせて退室する。見学席は入り口のすぐ真上にあった。
「ここで一気に畳みかける。五月体制に自浄作用が働くということを示す絶好の機会となる」
「今回の騒動に乗じて、水無月派の一部は既に行動を開始しています。黄昏官が警戒監視を続けているそうですが、文系派を追い落とすことによって生じる権力の空白をすぐさま埋めなければ、奴らに体制転換の口実を与えてしまいます」
「分かっておる。全ては明日の陪臣会、御前会議に掛かっているのだからね」
 月面情勢も、それぞれの思惑が密かにぶつかり合い、着々と次の段階へと進みつつあった。
 ヘルマンは防戦一方の対応を余儀なくされ、ついに白鷺ビルはネットワークの外部接続を絶った。宙ぶらりんの状態になったウィズダムは、人の往来によって事態打開を図ろうとしたが、警務官による異例の厳戒態勢により思うように事が運んでいない。
 理系派は警察権・検察権を手中に収め、文系派を陸に空に宇宙において足止めできるほどの優位性を確保した。ニコライは戒厳令布告により月都における文系派の往来をストップさせ、陪臣会における動議成立の帰趨を場外の駆け引きで決しようと画策。スペンサーは月地間の往来の封鎖で呼応し、シュリッツは座して出来上がった料理を毒味し、ついで桑茲司へと取り次ぐ。
 時局の行く末は、もはや定まったようなものだった。

 エイリアンパレス・オーメの地下通路を抜けて、由理たち一行はオーメの国際宇宙空港にたどり着いた。出発フロアの窓越しに見える広大な滑走路を前にして、由理は思わず息を呑み込んだ。
「そう……、由理は初めてだったわね」
 毛布を羽織りながら、アサミはそっと由理の肩に手を置いた。
「不思議ですね、あんな巨体でも大空を飛べるだなんて」
 由理の視線の先には、格納庫から出庫したばかりの宇宙航空機、形式的には「再使用型宇宙往還機」と呼ばれるものが離陸の時に備えて最終点検を受けている。
「あれは検事総長の公用機。通称プロセキューション・ワン」
 窓の傍にいる由理とアサミの姿に気が付いた誉志が、クロエを指さして苦笑する。
「ネーミングセンスですよね」
「人のことを馬鹿にする前に始末書を書けっての。素晴らしい機体を今なら無料で見せつけてやるよ」
「……私たちはあれに乗って二日間の宇宙旅行ですか」
「そのワクワクドキドキの宇宙旅行の後は、果てしない月面生活よ」
 行程としては、大気圏内を飛行する航空機同様、滑走路を走駆して揚力を得て飛び上がり、そのまま加速を続けて秒速一一キロ、即ち第二宇宙速度に到達後、大気圏を突破し地球の重力を振り切り、月と地球とのラグランジュ点を経て月都へ着陸する軌道へ入り、後は月の僅かな引力と軌道調整によって「嵐の大洋スペースポート」に着陸する。およそ二日の飛行を経て月面に到達する予定だが、誉志の口ぶりはそうではないようだった。
「一度我々は旧ISS、ゲートウェイで入都審査を受けます。そこで公用機の燃料補給と再度メンテナンスを行います」
「残念ながらここから速度を加速させたところであの機体をローンチウィンドウに乗せられるか甚だ疑問でね。本当は赤道直下で再加速をするべきなんだが燃料もそこまで残っていない、機体の保全も十分でない、つまり無駄に脱出速度を出させたところでガス欠で墜落か整備不良で空中分解かの二択になってしまうという訳さ」
「……呆れた」
 首を横に振りながら去っていくアサミの背中を見つめながら、由理は首を傾げる。
「ここは宇宙空港。どうしてそんなに切り詰めてるんですか」
「ここは元々着陸専用の空港だったんだ。つまり、嵐の大洋を出た航空機がここに着陸することはできる。しかし、また月面に戻るには、一旦リシャット基地に行かなければならない」
「宇宙船や宇宙往還機を地球の重力から振り切らせるには、赤道に近い方が効率が良いんです。今回みたいなイレギュラーな運用法では、高緯度地域以外の地上の空港から離陸し、赤道近くの上空で再加速を行い強引に脱出速度に乗せる手法が採られるのですが、どういう訳か機体の損傷が想像以上で」
「何処ぞの図書館部隊と違って天下の検察は大忙しなんだ。まさか特務課の専用機が故障して動けないなんて露ほどにも思わなかったからな!」
「よく言いますよ、どうせ公用機の修繕費をこの機会に掠め取ろうと思ってたんでしょうに」
「人聞きの悪いことを言うな、ただの成功報酬だ!」
 誉志とクロエの言い争いをよそに、由理は窓から離れて奈佐と千縫の待つ出発ロビーに移動した。
「由理ちゃん!」
 低反発のキューブ状スツールソファに座りながら、奈佐は由理に向かって大きく手を振った。その隣には、足を組んで自らの膝に頬杖をつく千縫の姿も。
「アサミさんは?」
「さっき喫煙室に坂出さんと一緒に入ってったよ」
「ふーん」
 奈佐の言葉に適当な相槌を打って、由理は傍らのカタログホルダーから空港のパンフレットを一枚手に取った。
「さすがは月面人の遊興施設だけあって、小洒落た身なりしてるけどさ」
 パンフレットによれば、空港の到着ロビーから連絡通路を通って隣接する大型商業施設エイリアンパレス・オーメに行くことが出来ると書いてある。その道中には日本列島の辿ってきた歴史がパネル展示されているらしいが、一度その光景をみた成宣からすれば、出鱈目のオンパレードだという。
「それに比べて、私たちが通った道は……」
 逃亡者たる由理たちは、ゲートで閉鎖されている連絡通路を通ることは叶わず、地下の業務用地下通路を使って空港内に入り込んだ。
「でもまあ、これから私たちは空を飛ぶんだよ。地球を越えて、目指すは月!」
「うーーん」
 気持ちを高めようとする由理をよそに、表情を強張らせたまま固まる千縫の呻き声が響き渡る。
「ぬいっち、便秘?」
「違うけど!」
 そう叫んで、震える指を千縫は窓に向ける。
「墜落するって聞いたけど……!」
 どうやら由理と誉志たちの会話が聞こえていたようで、千縫の顔面蒼白ぶりを目の当たりにした由理は慌てて弁明する。
「だ、大丈夫、墜落するような飛び方をしなければ墜落しないから!」
「墜落と隣り合わせってことじゃないか……!」
「ま、まあ事故はいつでも隣りあわせというか?」
「そもそも飛行機が好きじゃないんだ……」
「え、ぬいっちって飛行機乗ったことあるの?」
「う……うん」
 奈佐の言葉に、千縫はゆっくりと首を縦に振った。
「昔、親父に連れられて。そしたら私の乗る一つ前の便が墜落した」
「な、なるほど」
 あまりの衝撃的な体験に、奈佐も由理も生唾を呑んでたじろいだ。
「ち、ちなみにそれはどういった……」
「それが私の子供の頃だったから、あまり覚えてはいないんだ。ただ出発ロビーでたまたま仲良くなった女の子がいて」
「つまりその子は」
「今私たちが滑走路を眺めているように、あの時も私は女の子の乗った便の離陸の様子を見ていたんだ。エンジンが駆動して、機体が旋回して、滑走路に出た。出力が全開になって、機体が徐々に加速していった……その時、前輪が弾け飛んだ」
 幼少期の記憶ながらも、事故当時の衝撃的な光景は幼い千縫の脳裏に焼き付いているようで、その時の体験が千縫を飛行機恐怖症を発現させた。
「大丈夫だよ、何てったって私たちがいるんだから。ねえ、なさっち?」
「そうそう、由理ちゃんの言う通り」
「……不安が増したかも」
「はぁー?」
 しかし、千縫の表情が緩んだのをみて、由理はほっと胸を撫でおろした。ふと窓に視線を向けると、格納庫の傍で点検を受けていた往還機がいつの間にか搭乗口の方まで近づいていた。翼を広げた鶴のように平べったい直角二等辺三角形状の往還機「プロセキューション・ワン」は、その鋭角な先端部をターミナルに向けながら徐行速度で前進している。
「人類は実に一世紀にも渡って、宇宙第一速度を越える速さを出せる航空機の開発に行き詰っていた。その壁を乗り越えることができたとき、人類と宇宙との距離はググっと近づいたのだ」
 あたかも自らの実績にように語りながら、クロエはしたり顔で五人掛けのソファーに腰かけた。
「宇宙船が弾道ミサイルから旅客機に転身した、と」
「ほう」
 奈佐の言葉に、クロエは感心しながら人差し指を立てる。
「大空を駆け巡る超音速の衝撃波、大気圏を貫く一筋の光球。まさに天の使い、法は天上より地上を照らすのだ」
「月面や火星も照らしてくださいねぇ」
「うるさい特務課!」
 また始まった、と思い距離を取ろうとする由理だったが、出発ゲートから往還機の機長が足早に近づいてきたのをみて、そっと千縫の背後に後ずさりする。
「総長、間もなく搭乗可能になります」
「分かった。機体の準備の方は任せたぞ」
「はい」
 そう返事をする機長の服装は、両肩に階級章が貼り付けられた白いワイシャツに、一般的なフォーマルスーツのボトムというもので、大気圏内を飛行する通常の航空機を操縦する時のものだった。
「そういえば、宇宙服みたいなものは着たりしないんですか」
 由理の疑問に、機長は朗らかな様子で首を縦に振る。
「私はこれから着替えに戻ります。ただ、こちらの行程がゲートウェイまでになるので、簡易的なものですが」
「私たちも着替えた方がいいんですか」
「それは好みに分かれますね。一応地球の気圧下における普段着と同じでも過ごせますが、無重力ではお洋服も浮いて身体と密着しないので。汗とか気になる方は加圧式のアンダーウェアの着用をお勧めしております」
 機長の言葉に、真っ先に千縫が挙手をする。
「着替えます」
「じゃあ、私も」
 千縫に続いて奈佐も挙手をしたので、由理も流れで手を挙げた。
「ええ、更衣室に一応人数分の用意がありますので。少し時間もあるのでどんなものか見てみるのもいいですね」
 そういうと、機長は踵を返してゲートの向こうへ去っていった。
「あれは宇安保の特別輸送部隊の班長でね、こうした政府要人の星間飛行には必ずと言っていいほど彼が操縦するんだ。航行の腕は信用できる、そう思ってもらっていい」
 特別航空宇宙輸送隊――特輸隊とは、世界連合の要人が遠隔地および異星への出張の際に特別輸送の任にあたる航空部隊のことで、特務課への過度な軍備を抑制するべく管轄は宇安保となっている。
「こんなまどろっこしいことをしなければならないのは、ひとえに特務課の存在の危険性故、だな」
 本来、要人輸送には軍隊がその役割を担うことが一般的である。しかし、世界連合には正確な軍隊と位置づけされている組織が存在せず、だからといって軍警察(国家憲兵)としての性格を帯びている特務課に輸送任務を請け負わせるのは当該職掌を鑑みても明らかに越権行為であり、もし従来の法解釈を曲げようとしても、三月革命の苦い記憶を持ち続けている政府要人からすれば到底受け入れがたい事柄だったのは間違いない。結果として世界連合の権威を遍く世界全体に広める役割の一端を担う特別輸送の任は、無難に運輸当局に該当する組織、即ち航空宇宙運輸安全保安機構が管轄することになった経緯を持つ。
「……お言葉ですが、特務課が主体的な判断で動いたことは未だかつてありません。逆を申せば、そういった制約があることによって、文民統制を突き詰めた結果、権力者の恣意的な暴力装置にいつでも転換できてしまうのが今の特務課といえますが」
 誉志の反論は、受け取り方によっては特務課の扱いについて不満を持っている、とも取れるものだった。クロエも誉志の言動に眉を僅かに上げてみせたが、その部分を突くことはなかった。
「まあ、話の続きは機内でゆっくりと。俺らはお先に更衣室で宇宙服に着替えてきますから」
 誉志とクロエの間に割って入るように成宣がそう告げると、着替えを終えた機長がゲートの向こうから手を振って応えた。「こちらですよ!」
「了解了解。後は機長に任せる」
 クロエの同意を得て、由理たちは早足で機長の下へ去っていく。まるで遠足にも行くかのような平和な様子に、クロエは嘆息する。
「まだ一八の年頃で、こんなにも限界社会の現実を目の当たりにするとはな」
「延命社会は絶対的な社会階層の固定化を暗に進める希望絶望織り交じった社会。少なからずそんな世の中に生を受けている以上、もはや老若男女は関係ないと思いますよ」
「とはいえ、人は誰しも生まれてくることを拒めないだろ。生まれた以上、これからの人生を生きていく義務が生じるだなんて、言えるわけがない。まさかそうだとでも思っているのか」
「まさか、そんな訳はないですよ。……願わくば、私も生まれない権利を行使したかった」
「ん?」
「ああ、いえ、早く準備を済ませて、大気圏を脱出しましょう」
「そうだな……」
 誉志の意味深な呟きを、クロエは聞き逃さなかった。しかし、その一言が何を意味するのか、クロエには分からないことだった。もしかすると、自らが発した言葉の意味を誉志自身が分かっていないかもしれない――。

 自らの言動すらあやふやな人間たちが創り上げた環境に包まれた世界を生きる二三世紀の人類社会。協調と共存をスローガンに掲げて人類史の表舞台に躍り出た世界連合は、いくつもの社会階層・星々を糾合しながら時間を貪り続けている。歪な支配構造を抱えながら社会は、何処へと向かうのだろうか。その問いの答えは一向に見えてこない、否、実は既に私たちの眼前に存在しているにもかかわらず、私たち自身がその答えに向き合おうとしないだけなのではないか。可視化された都合をのみ受け容れ、有るものを無いと断定し、ある時は無を有に仕立て上げる。
「この世は舞台、そこに生きる我々は自らが演じる役の名のみを与えられ、おのずと定められた人生を演じ切る。台本は神のみぞ知る、我々は得体のしれない神という舞台監督に、背中のネジを回してもらうのを涎をたらしながら待ちぼうけている取るに足らない人形風情だ」
 世界のどこかに所在するといわれる、公的機関の一つでありながらその職掌について多くの市民が知ることのない組織、歴史評議委員会。彼らは人知れず会合を開き、人類社会の未来について議論を交わす。
「ならば、今般の社会情勢の趨勢についても予定されていたことだと。この結末にたどり着くために、決して少なくない命がこれまでの人生を生きてきて、そして死んだと」
「言葉を慎みたまえよ。個々の生命に価値などありはしない」
「我々が生かすべき社会とは、個々の生命の集合体だ!」
「社会を動かし、生かしてるのは全人口の何パーセントだと思っているんだ。それ以外は所詮塵芥だね」
「よさないか、エミー」
 委員の一人が挑発的な言動を吹っ掛ける隣席の男性に声を掛ける。エミー、と呼ばれた男性委員は、言い争った別の委員を蔑む目で見つめた後、すっくと立ちあがった。
「我が社が取り寄せた情報によれば、どうやら地球には延命公の生体情報を持った個体が生存しているらしいですが。……委員長」
 エミーは不敵な笑みを浮かべながら、委員席とは離れた場所にある委員長の座を見据える。
「そのような情報、私は確認していない……です。ここはあなたの個人的な見解を述べる場ではありません、あくまでもあなたは参考人程度の存在、いわばゲストです」
 何処か幼い声を発する委員長は、その姿の殆どを他の委員に見せることはなく、淡々とエミーの発言を牽制する。
「あはは、それはそれは。真偽はともかく、今の今まで死ぬことなく生き永らえているのなら、そういう役を背負わされていると考えることもできる」
「なら」
「なら、我が社は地の果てまで、銀河の果てまで追い求める所存。これで捕まってしまうのなら、そいつもそこまでの運命性しか持っていないことになりますから」
 エミーのれっきとした弁舌の立て方に、他の委員たちも固唾を呑んで委員長とのやり取りを見守るしかなかった。外部からの参加とはいえ、エミーの存在は無視することのできないものだった。
「ふん、若造が」
 その時、女性委員の一人が明らかな侮蔑を含めた発言を行い、室内に緊張感が漂う。
「これはこれは……、お立場上許されない言葉遣いでは」
「安心しな、この会合は議事録が残らない」
「私は覚えていますが、まあいいでしょう」
「私語はそこまでにしていただきます」
 二人のやり取りを制止した委員長は、その声の調子とは裏腹に、非常に重苦しい音をガベルで打ち鳴らした。
「……今般、ヘルマンを筆頭とした派閥による不正な権力行使及び利益追求が発覚しました。明らかな延命主義違反と呼べるこれまでの行為に際して、当委員会では道義的責任を追及するための特別調査委員会の設置を桑茲司台下に勧告することを、全会一致により決議します」
「異議なし」
「異議なし」
「大いに問題だ、実効性に疑問を禁じ得ない」
「またエミー君か」
「その特別調査委員会に私も関与させていただきたい。それでよろしいですか」
「……構いません。探偵社の能力を駆使して対処にあたってください」
 エミーの要求を委員長はすんなりと受け入れた。他の委員たちは、その意外な対応に戸惑いの声を口々に漏らしたが、それも瞬時に収まった。
「承知、しました」
「よかった。では決議案は全会一致で可決となります」
 エミーの同意により、歴史評議委員会は文系派による不正行為の数々をつまびらかにするための特別調査委員会の設置を桑茲司に勧告する決議案を全会一致で可決した。
「今回の会合は以上です。これにて解散とします」
 委員長の散会のガベルを合図に、委員たちの姿を模したホログラムが次々と消えていく。最後に委員長の姿が消えていくと、室内に残されたのはエミーのみ。
「……“僕”は夢想家だからね、夢を諦めることはできない。中途半端には決して終わらせない」
 エミーの素性については、歴史評議委員会と同様知る者は少ない。委員長曰く、探偵社を運営しているというのだが、多くの人々は――たとえそれが陪臣など高位の政府役員だとしても――その探偵社の存在自体を知らない。
「まずは秋津阿見の身辺から探ろう。彼女の最期は、実に可能性に富んだ死にザマだからね……」
 誰もいない室内で一人声を殺して笑うエミー。彼を知る数少ない人々は、こう形容する。
「『ゾンビ探偵』……死してなお蘇り、彼女の元へたどり着く」
 生への執着、転じて真実への探求心。幸か不幸か、立場にある者は命を繋ぐことによって社会的役割を継続することが出来る。外見の変化は知己の人間関係を欺き、環境の変化は新たな視点からの観察を容易にした。
 世界は、確かに広くなった。かつては「宇宙船地球号」とも呼ばれ、広大と呼ぶにはあまりにも大きすぎる漆黒の宇宙の中で、狭い狭い星に有限な資源でのみ生きる人類の悲嘆さを端的に表現された青き惑星、地球。人類の生存権は、しかして科学技術の進展と共に広がりをみせ、今では月面と火星の一部区域を獲得した。人類史においては、敵のいない範囲への勢力圏拡大というだけあって、極めて平和的に行われた入植活動とも称された。しかし、領域が広くなっただけで人類社会は狭くなっていく一方だ。世界の人口動態は下げ止まりの数値のまま停滞し、人間関係は壱か零かで語られ、自浄作用は失われた。非公然たる捜査活動により人格は裸のまま道路を闊歩し、安定した日常生活と引き換えにプライバシーは消滅した。社会構造は新陳代謝を棄て、社会階層は固定化された。底辺の人間は虫けらのように死んでいき、上に立つものは死を商売道具と化した。留まることを知らない人類史はここにきて不断の停滞行動を高らかに宣言した。改革への秋波は常にその指向性を改竄され、その澱みは絶えず地球へと押し寄せた。
「ここシカワ区は常に二分化された社会構造を戴いてきた。富裕層と大衆層、それらが反駁し、その対立の間隙を縫って反社会勢力が勢力を拡充し、一時期は行政と癒着することもあった」
 エミーが重厚感のある鉄製の扉を開けると、そこは眼前に広大な水面が広がる湖――ミシガマー湖の畔。先ほどまでの重苦しい空気感とは裏腹に、湖面を爽やかな風がそよぐ。青色に萌える草原は軽やかなさざめきを奏で、エミーを東からの季節風が包み込む。
「かつての風の街は、今や風の吹きすさぶ街、隙間風の絶えない街になった。しかしここに生きる人々は誰もかれもが可能性を掴み取ろうとする挑戦者気質に満ち溢れている。その心意気を無駄にせず、管理し、統制するのが我々の務め……」
 ミシガマー湖の湖面には、倒壊した高層ビル群が映し出されている。瓦礫でうず高く築かれた山の様子は、まさに空真誦のそれと違わない。かつては世界都市として名を馳せた当地も、人の手を離れれば瞬く間にその地位から転げ落ちる。建造物の表面は剥離し、露出した鉄筋は錆びて朽ち果て、辛うじて残っている建造物の壁には極色彩な落書きが施されている。かつての裕福さや栄華さは微塵も残ってはいないが、そういう汚辱に満ちた環境でこそ個性を発揮する者もいる。エミーの手中に収まる人々とは、そういう泥水の中において自由闊達を得る者たちだった。
「清水に棲む者は鯉の気持ちなど到底知り得ない。だからこそ彼らは意表を衝かれ、その権勢も根本から崩れ去るのだ。人の繋がりは、人であるからこそ脆くちぎれてしまう」
 エミーの見据える先、そこには崩壊した大都市の傍らで、変わらず成長を続ける植物たち。社会の一つの規範が消えたとて、自然界は絶えず歩みを続けている。進化をこそ種としての生存競争の本分だとするのなら、人類の生存圏を拡大するための技術を得ることを進化と呼ぶべきであり、その進化の実を貪る政治権力はまさしく人類にとっての癌である、と。
「人類を自然界の頂点と捉えるのなら、それは生存圏を地球外へと広げた行為を以て称えるべき。しかし多くの人間は、喋れず、思考できず、本能のままにしか生きられない動植物を見下している……、実に哀しい」
 湖の畔を歩き、エミーはポツンとたった一人ぼっちで咲く花――女神の名を冠するラクストリスに気が付き、そっとしゃがみ込んだ。
「社会を動かすのは、権威権力を手に入れた者ではなく、自らの役目を自覚している者だ」
 在地階層への過度な干渉と密接な資金取引が主たる権勢を誇った文系派も、ついに崩れ落ちようとしている。人を過信し、人を侮ったが故の結末に、エミーはさしたる興味を示さなかった。しかし、強大な権威が崩れようとしているときに、どさくさに紛れて隠遁しようとする黒々とした闇を、エミーは見逃さなかった。
「木を隠すなら森、人を隠すなら人の中。不祥事を隠すなら……」
 そういってラクストリスの花を摘むと、エミーは湖の向こう側を見つめながら静かにほほ笑むのだった。

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