第1話「窪の底から」『星霜輪廻~ラストモーメント』第二章:月面編
≫一≪
延命主義を至上とし、世界平和の願いをも包摂して進行していった世界連合。人の希望は逆説的に澱みを帯び、いつしか絶望へと転じる。世界の数多の社会体制は、同様に人々の喝采を浴びてこの世に生じ、やがて社会の歪みを増大させながら無為に生命を貪りつつ新しい希望へ置換される。その営みは、さながら新陳代謝を繰り返す多細胞生物のようであり、その行きつく先は成長か、退化か。
奇しくも一世紀と半分の時を遡ると、そこには教壇で弁舌を振るうヘルマンの姿があった。彼は水上葉月とアレクサンドラが提唱した転生による疑似的な延命技術に理論的補強をするべく、シャーロットと共に理論構築と正当性担保を拵えつつあった。
そうして時は経ち、スローガンに賞味期限が訪れた。一時代を築いたヘルマンの実績は、じきに第三者に取って代わられる。
――先ほど桑茲府広報官の発表により、自治監理局の廃止が布告されました。
かといって、公に出される情報が選別されるのは常である。元よりヘルマンによって情報戦術が繰り広げられてきたこともまた事実で、ヘルマンを槍玉に挙げるにはカバーストーリーを用意しなければならない。いうなれば、一〇〇パーセント攻撃のできる贄が必要だった。
――自治監理局プランダー・マコーン局長の行った贈収賄事件の余波は、なお一層の拡がりをみせる様相です。
ヘルマンの手足となり、在地社会と文系派陪臣との接続点となっていた自治監理局は、文系派を攻撃する理系派にとっても、あまつさえ文系派にとっても格好の贄だった。
「すべては現場の独断で行われた由々しき不祥事。まことに遺憾である」
文系派はすかさずトカゲの尻尾を切り、自己保身を図った。ヘルマンのこの声明に、あろうことかホアンも賛同した。握手をするホアンの袖口には、いずれ月の光を帯びるであろう法の小刀が隠されていたものの。
いずれ綻びるであろう、文系派の緩慢さを、司法は見逃さない。少なくとも理系派が、ホアンが法の側で立つうちは、時勢は間違いなく理系派へと傾いている。
そうして時は二二〇六年。益江事件の発覚から二年の月日が経とうとしていた。
≫二≪
月面都市コペルニクス。中心部が下底部となり、階層が円状となって階段状の地形を構成する同地は、月面に点在するクレーターの窪地内部に設計されている。月面の過酷な温度変化や、無防備な防空事情も相まって、半ば実験的にスタートしたクレーターコロニーは、今や月面開発を構成する主たる要素となっている。特にここコペルニクスは、人類が初めて月面に生活拠点を有するうえで最重要ポイントであり、最底辺の中心部に、人類社会の最高点であるボイレ――世界連合本庁舎が座している。
そんなコペルニクスの第三階層、中心部からほどほどに外れた住宅地の一角にあるマンションのベランダに、ある女性が佇んでいる。
「由理ちゃーん」
西見由理、二〇歳。旧益江町の介護施設で住み込みで働いていた元学生。益江事件の煽りを受け、代理保護者である施設長アサミと共に月面へと退避した。
「あ、おはよう、なさっち」
坂入奈佐、同じく二〇歳。由理の親友であり、同じ益江学園に通っていた元学生。父親は日本自治区社会保健局の局長:坂入真佐であり、母親はかつてウラジオストクから派遣されていた工作員:アナスタシア。
「そろそろ見飽きたんじゃない、ここの景色」
由理には日課がある。親友に飽きられるほどのことではあったが、由理にとっては欠かせない毎日を彩るもの。
「そんなことないよ、ここにいるとあの日のことを思い出してね」
「もう二年。時の流れは無情だね」
由理たちは今月面に居を構えている。第三階層の郊外ともいうべき住宅地の一角、由理は奈佐と、もう一人の親友:竹崎千縫と一緒に平穏な暮らしをしていた。由理は、自室のベランダからうっすらと見える中心部の景色をみながら、在りし日の記憶に思いを馳せていた。
「ぬいっちは?」
「ぐっすり。いつもと変わらないよ」
「そっか、そっとしておこう」
千縫のルーズさは変わらない。しかし月面生活では、昼夜のサイクルはもはや通じない。なぜなら、月面は地球時間で二週間の周期で昼夜を繰り返すのであり、もはやライフサイクルは個人任せとなっているからである。
「次の夜は三日後だね。私は夜の方が好きだなあ」
「なさっちっていつも昼間に騒いでいるイメージだったけど、意外と夜はなんだね」
「何を。それをいうなら由理ちゃんの方が夜型だと思っていたのに」
「さすがに二週間照らしっぱなし、暗がりっぱなしはやり過ぎだけどね……」
月面開拓の上で避けては通れない問題、それこそが昼夜サイクルの長時間さと寒暖差の大きさだった。昼は灼熱の時間が続き、ようやく夜が来たと思えば、極寒の時間が同じく続いていく。四苦八苦を重ねて、ついに人類はクレーター内に拠点を築く方法を案出した。大気を創り出し、さらに特殊な塗装によって温度調節機能を備えたドームを覆うことで、人体への影響を極力抑える都市設計がなされている。
「そういえばさっきニュースで日本の話がでてたよ。といっても、坂出財閥のことじゃなくてLC社がメインだったけど」
眉間に皺を寄せながら端末を取り出した奈佐は、画面に該当のニュース記事を表示させる。由理はその画面を一瞥して、嘆息する。
「アサミさんがみたらどう反応したかな」
「……長いね、拘束」
かつて益江町計画を立案し、介護施設経営を通じて文系派とよしみを通じていたアサミ。由理の代理保護者でもあった彼女は、益江事件の折に理系派と接触、情報提供と引き換えに月面逃避の機会を得たが、肝心の理系派は全てを有耶無耶にはしなかった。
月面へ到着し、ようやく落ち着いた生活を取り戻そうとしたその時、理系派は文系派による贈収賄事件の総括と称して、関係者の適宜証人喚問を行った。アサミも他に漏れず事情聴取を通告する召喚状を受け取り、内務市民委員会本庁舎:円卓ビルへと赴いた。既にそれが半年前のことであり、以降由理はアサミに会っていない。
「面会もなし、事後の情報提供もなし、アサミさんは何をしているんだか」
由理は、最悪の可能性を考えることはしなかった。というのも、由理はアサミの行ったことは悪いことだと認識していても、半ば身代り的に小出李音が責任を負っているものだと考えていた。であれば今さらアサミに累が及ぶはずもないと、半ば楽観論を抱いていた。
「そういえば、特務課の……誰だっけ、ほら」
「誉志さん、だっけ。時々近況を教えてくれるよ。なんでも今特務課は肩身が狭いらしいから」
「へえ、意外」
益江事件を始めとした一連の事件では、特務課と検察官の合同チームが結成されていた。本来であれば警務官が動くべきところを、文系派による政治体制の中で機能不全に陥っていたため、例外的に特務課が派遣される事態となっていた。武の特務課、智の検察官という協力体制だったはずが、長年置物状態とされてきた特務課の実働力は検察官に軽々と上回られ、もはや文系派という重石が外れた以上、特別な組織たる特務課の存否自体が議論されつつあった。そのような中で、誉志は比較的自由な立ち振る舞いで月面を渡り歩いていた。
「誉志さん曰く、内務市民委員会はもうじき理系派一色になるだろうってこと。もしかすると特務課がなくなってしまうかも、とか」
「特務課がなくなる? じゃあ誉志さんは」
「何か、誉志さんは特務課にあまり執着してないっぽかったね。退職金で本を読み漁りたいって」
「はは、変わった人」
軽く笑いあう二人だったが、ひそりひそりと理系派の追及の食指は三人の元に忍び寄りつつあった。
理系派、特に内務市民委員会行政官の地位を保ち続ける羅啓明は、日本自治区の州昇格に否定的な立場を崩しておらず、また同様に列島に利権を保ちたいLC社、特にシュゼ・ニヤとは対立傾向にあった。
このような地域レベルの月面と在地間の齟齬は何も日本に限った話ではなく、地球各地で起きており、その一つ一つにホアン自身が目を通すのは至難の業だった。初めは些細な問題であったのが、周囲の諸問題をも巻き込み、雪崩を打つように大ごとに変貌していくのは世の常、歴史の常。であるからこそ、希望は権力欲を自然発生的に増大させ、大に小を兼ねさせるのである。ホアンもそうなることなど、もはや時間の問題、秒読みの段階であった。
「うぅ……」
「あ、おはよう」
部屋の扉の影から顔を覗かせた千縫は、呻き声をあげながら喉を押さえている。
「ぬ、ぬいっち?」
「うぅぅ!」
かと思えば、覚束ない足取りで由理の元にすり寄り、膝を床につける。
「ど、どこか具合悪いの?」
「お、お腹が空いた……」
緊張を解かせる千縫の一言に、由理は思わず吹き出しながらそっと千縫の頭を撫でる。
「そっか、朝ごはんにしよっか」
一見すると何気ない日々。しかしそれは、由理たちの視界を覆う壁があるだけにすぎない。平穏な時間の流れを感じさせている裏で、当事者たちは多忙な時間にもがき進んでいた。
≫三≪
「――まーたこの案件かよ!」
幾重にも積まれた資料の山に埋もれながら大声を上げるのは、今や時の人として多忙を極めるクロエ・ヴァンサン検事総長。第二階層に拠を構える社会道徳保全機構=シャドウの第二庁舎、最高検察庁オフィスの一角で、鋭い目を電子タブレットに向けて叫び散らす。
「はい、よろしくお願いします」
極めて事務的に書類だけを置いていく職員に唇を尖らせながら、クロエは荒い手際とは裏腹に端正な押印を進めていく。
「……たっくよぅ、この煩雑さをジカに感じると世界統一政府っていうスローガンの愚かさが目に付くよな。人の手は変わらず二本だっつの」
かつては一国分の作業量で済んでいた事務処理も、今となっては地球一個分の膨大さ。それでありながら、ホアンはじめ理系派陪臣は指示だけを出し、現場レベルの細かな作業には手どころか指一本すら貸そうとしない態度には、同じ検察官や理系派と目される関係組織の職員からは怨嗟の声も上がるほど。
とはいえ、ホアンからしてみれば文系派から政権を奪い取れる格好の機会であり、ここで逃してはならないという焦燥の念も見え隠れしており、クロエもホアンの心情をある程度は汲み取って表立った反発は見せないよう努めてはいた。
「クロエさん、目に見えて苛立ってますね」
「チッ、せめて一人の時くらい文句は言わせてくれ」
「この間は……確かマスコミ原告被告裁判官入り混じってのカオスな法廷で言葉の暴力を振るっていた気がしますが」
「あれは文句じゃないさ……、正当な抗弁だ」
「はは、はいはい」
クロエの執務室で資料の整理にあたるのは、朝倉高義事務次官。事務次官といってもシャドウに属する各省のうち司法省など法務関係の事務方のトップであり、クロエとは僅かに肩書の上下関係が存する。
「なあアサクラ、お前はこっちにきて大丈夫なのか?」
「大丈夫も何も、クロエさんの手続きが済まないとこちらに案件が回ってこないんですよ」
「悪かったな遅くて!」
「急かしているのは私ではなく、ホアン理事長ですよ。もう間もなく益江事件の総括が完了しますから」
「ああ……、ああ」
荒んだ吐息を落ち着かせるように、クロエは大きく息を吸う。
「確かクロエさんが直接出向いた事件ですよね。あの時ばかりは珍しく現場主義的な行動だったので、なかなか感心したのを覚えていますよ」
「言い方もっとあるだろ」
「それにしても、なぜクロエさんが?」
「あれは理事長のたっての指示だったからな。久しぶりに地球環境で負荷を掛けたいというのもあったが」
上腕をさするクロエに苦笑しつつ、朝倉が言葉を続ける。
「理事長は勝負運の強いお方ですからね。ここぞという時の判断力と分析力こそが彼女の地位を押し上げたんでしょう」
ホアン・チ・ルーエン、またの名を〝月天虎子〟という。好機を逃さず、また恩を受けた相手でも容赦はしない、そうした彼女の政治スタンスを形容したものだったが、大東亜州越南区出身の彼女にとっても良い二つ名だったことは、彼女の名刺に採用されていることからも明らかだった。そうした朝倉の指摘に、クロエは「しかし」と応える
「それも今は亡きシャーロット・ノヴァの影響だ。理事長は自らが漂白刑に追い込んだ亡霊に縛られ続けている」
シャーロット・ノヴァ。かつて再開発機構の理事長として、ヘルマンとの二人三脚で世界連合草創期を支えた名士。しかし彼女は汚職の罪で漂白刑を宣告され、シャーロット・ノヴァという人格は人類史から抹消された。代わって再開発機構主席理事長の地位についているのは、シャルル・ブランシュ・ナン――名前こそ似たれども本質は別人格だった。
「トップが輝いているうちはまだマシなんでしょうが。いずれにしても気が抜けませんね」
「しかし益江事件さえ終われば、後は芋づる式に解決できるだろ。特務課が集めた資料と警務官が残した資料をパズルみたいに組み立てて、まるでレーン作業のように、な」
「そういえば特務課が廃止されるとかなんとか」
「らしいなあ。張り合いが無くて困っちまうけどな」
「治療よりも予防を優先する、羅啓明行政官の考えらしいですけどね」
「存外、動かしやすさにビビッてしまったのかもな」
「はは、有り得ますな。先手を取ったつもりがまさか先に行政手続きを突破されてしまうとは、羅行政官も想定外だったでしょうし」
「まあ唯一の暴力装置っていう看板もだいぶ形骸化していた頃だ。ここらでいったん畳んで、新しく作り直せばいい……虎月軍とかどうかな」
そういうとクロエは作業に一区切りをつけて立ち上がった。
「どちらへ?」
「ちょっと昼飯を作ってくるさ。鶏むね肉を解凍しないといけないからな」
「はあ……、であれば私も一度オフィスに戻ります」
「そうしろそうしろ。理事長の一二人会用資料をさっさと作ってやんないとな」
「あぁ、そうでした。次の次の会議でクロエさんに進捗状況の説明をやって欲しいと理事長が仰っていたので、後で理事長から一報あると思いますが一応お伝えしておきますね」
「は、はあ!?」
しかしそんなクロエの驚嘆をよそに、朝倉はクロエの執務室を後にする。残されたクロエは、羽織りかけたジャケットを肩にぶら下げたまま硬直する。
「冗談だろ……、あんなしみったれた場所にまた行かないといけないなんて」
しみったれた、といっても一二人会の平均年齢はそれほど高くない。幼老輪廻の転生を繰り返しているのでそもそも加齢そのものに嫌悪感を抱くことなどは無いに等しく、クロエにとって嫌なのは専ら陪臣たちの感性についてだ。
「あーっ、前回は司書と一緒だったから乗り切れたがなあ」
前回とは、二年前のこと。既に陪臣の列からマコーンが排除され、理系派の権勢いよいよ高まれりといった頃にクロエは誉志と共に参考人として登壇したことがあった。会議時点での益江事件の情報について、実際に現地に赴いた者の証言としてクロエや誉志の言質を取りたいということもあり、クロエはいやいやながら出席した経緯があった。
しかし特務課の立ち位置が微妙な情勢下で、わざわざ実績のない誉志を召喚する必要はない。となると必然的に参考人はクロエのみ。
「そーいや、連絡先は知ってんだよな」
ふと思い立ったクロエは、ジャケットを羽織り直すとポケットから端末を取り出した。
「ざっと一年ぶりか、しょぼくれた声でも聞いてやろう」
にやにやと口角を上げながら、クロエは司書と記された人物をタップし、通話を掛ける。
「……出ねえな」
しかし、呼び出し中の画面のまま、一〇秒……二〇秒と時間だけが過ぎていく。眉をひそめて通話を切ろうとするクロエだったが、コール音が途切れたことに気が付いてさっと送話口に声を掛ける。
「よう、元気かな――」
≫四≪
「電話、鳴ってません?」
誉志の端末を久々に震えさせたのは、見ず知らずの番号からのものだった。
「おや、誰だろう」
由理の指摘で端末に目を向ける誉志。
「まさか、イタ電だったりして」
「月面にも悪徳業者がいるなんてな」
そんな様子を奈佐と千縫は面白がって眺めている。
「さすがに私なんかにそんな手間かけないでしょう」
といいつつも、誉志は恐る恐る応答ボタンを押してみた。きっちりスピーカー機能をオンにさせながら。
「……もしもし」
『よう、元気かな』
想定外の、馴れ馴れしい口ぶりに、誉志も由理もすっかり固まってしまう。
「ん?」
『んん?』
しばらく沈黙が続いてのち、たまりかねて誉志が口を開く。
「どちら様でしょうか」
すると通話先からけたたましい物音が響き渡り、素っ頓狂な声で『わざとやってるのか!?』と答えが返ってくる。
「は、はあ」
しかしそこで誉志も、何者かの正体に思い当たりがあったのか、改めて電話番号を確認する。
「もしかして……検事総長ですか?」
『もしかしても何も通知画面で誰から来たか分かるだろ……ってまさかおい』
通話の相手はクロエ。そう知った誉志は、由理の目から見ても明らかに面倒な表情を浮かべて首を横に振る。
「職業柄、接点のない相手の番号は削除しているんです。そういうあなたこそいつまでも私を登録したまま、挙げ句イタズラ電話とは」
『イタズラじゃねえ、ていうか去年会っただろうが』
「もう切りましょうか」
『短気かよ……、まあいいか』
「……どうしました?」
『どうもしねえよ!』
有無を言わさずに通話を切ったクロエに、誉志は怪訝な表情で由理を見る。
「何かあったんでしょうかね」
由理も記憶を辿ってクロエの振る舞いを思い返したが、やはりよくわからないというのが印象だった。
「ところで、特務課廃止の話はどうなったんでしょう?」
奈佐の問いかけに、誉志は首を横に振る。
「そういう話も私の方には来ないんです。幸いニコライ行政官との連絡はしていますが、如何せん行政官も気まずい立場に置かれていますからね」
文系派による贈収賄事件が明らかになったとき、ヘルマンやダッチはもちろん、同じ文系派として政界に座し、陪臣に名を連ねていたニコライにも疑惑の目が向けられた。またニコライはウラジオストクの支援を受けて内務市民委員会の行政官についた経歴もあることから、説明責任を果たすことが第一義に求められた。結果としてニコライは依然行政官の地位に留まり社会情勢の安定化に役割を求められる立場であったが、理系派、特に羅啓明からの視線は厳しいものとなった。特務課廃止という話が持ち上がった時、そこにニコライの姿はなく、後日秘書官から口伝で聞いた程度だという。
「ホアン理事長や羅行政官がどういう考えなのかは私も知る由がありません。ですから、わざわざ相手の思惟を類推する暇があるなら、私は私のやりたいことをやろうと思ったまでです」
「それで、ここへ?」
困惑気味に呟く千縫だったが、誉志は軽く笑い飛ばした上で
「一応これでも仕事をしているつもりなんですよ、意外でした?」
と応え、由理も奈佐もよく分からない状態で愛想笑いをする。
「そうだ、今度おススメの喫茶店を紹介しましょうか。きっとお口に合うと思いますよ」
あっけらかんとした様子で端末を弄る誉志をみて、由理は苦笑する。
「なんだか、まるで同年代の友達みたいですね」
「さすがにそれは失礼でしょ」
奈佐のツッコミに、誉志は「いやいや」と反応する。
「やっぱりこういうのが私も体験してみたかったんだと思いまして。全部あの人のせいですけど」
「あの人……?」
三人ともに首を傾げる様子に、誉志は幾度か頷いたあとに「よし」といって立ち上がった。
「そろそろ失礼させていただきます。お茶ごちそうさまでした」
そういって玄関へ向かう誉志の背中を、由理は呼び止める。
「あの、アサミさん……元気ですか」
「ああ、それなら心配には及びません。あまり詳しくはお教えできませんが、近々動きがあるのは確かですよ」
「動き……」
すると奈佐が由理の背中を力強く叩く。
「では、これで」
玄関の扉を開けて去っていく誉志を見送りながら、由理は逡巡する。アサミのいない半年間を過ごして、やはり由理はアサミに傍にいてほしかった。傍にいてほしいと言っても庇護者として近くにいてほしいというわけではなく、少なくとも自らの目のつく場所でいてほしいという、まだどこか若さゆえの依存心が抜けきらぬ気持ちの産物ではあったが。
「そっか、そうなんだ」
アサミの進退に緩んだ憶測が生まれる一方で、政権中枢では密かに致命的な亀裂が迸ろうとしていた。
≫五≪
世界連合事実上の最高意思決定機関、陪臣一二人会。三月革命以降、桑茲司を支えるという名目で始まった合議制の意志決定は、専らヘルマンを始めとした文系派の意向により行われていた。しかし、一連の贈収賄事件の発覚以後、発言権は理系派へとシフト。着々と文系派陪臣への粛清が行われる一方で、行動力のある一二人会はもはや過去のものとなり、日々行われる臨時会合は議論の着地点を見出せぬまま次回へ持ち越しという怠惰なルーチンが無秩序に繰り返されていた。
「――ですから、早々にこの問題は決着しなければならないと重ね重ね申し上げているところでして」
いつになく一二人会で声を荒げるのは、内務市民委員会行政官:羅啓明。円卓の中央に用意されているモニターに資料を映写させながら、身振り手振りで議論の早期決着を訴えかける。
「しかし羅。即応力も大事だが、そこには法的根拠が必要なんだ。手足だけで歩を進めれば、それはヘルマンの二の舞いになる」
羅を慰めるのは、ヘルマンに代わり実質的に世界連合を取り仕切るホアン。欠落した陪臣を補填するために理系派の中から実力ある官僚たちを抜擢したはいいものの、明確に分派・派閥化してしまったことから組織内のとりまとめこそ先決事項だと考えていた。
「しかし理事長。益江事件にしろ他の自律行政体の問題にしろ、賊と呼んで政権から追い出した連中の政策を引き継ぐ意味がどこにあるのでしょう?」
羅の主眼は、専ら在地環境の掌握にあった。つまりは、日本州昇格問題において、はたして文系派の敷いたレールを走ってもいいのだろうか、とホアンに問いかけているのである。
「もちろんその点は十分に考慮してある。ヘルマンどもは己の利得という観点から州昇格をしたが、我々はその前提条件を否定した。我々が新たに昇格の根拠とするのは――」
「行政手続きの簡略化、及び簡潔化、そして即応化。LC社は殊の外日本列島を欲しがっています」
ホアンの言葉に被せるように発言したのは、再開発機構主席理事長:シャルル・ブランシュ・ナン。モニターに新たに映し出されたのは、グード図法の世界地図。
「派閥争いは結構なことですが、LC社の動向も注視しなければなりません。加工工場立地問題もおざなりです」
しかしシャルルの提言をホアンは即座に否定する。
「今は火星どうこうといった話ではなく、足場固めのときだ」
「今は火星を構っている暇などありません」
同様に羅も否定を口にしてシャルルを睨みつける。
「ならば早期に益江事件の総括を終え、日本州昇格を認めるのがよいのではないでしょうか」
抑揚のない台詞ではあったが、それが真理でもあった。ホアンは顔をしかめつつもシャルルの言葉を否定しなかったが、羅は明確に首を横に振り、机を人差し指で二回ほど小突いた。
「……日本州昇格という判断は、例え承認主体が政治倫理に背いた者たちであったとしても、闇雲に否定してしまうのは勿体ないと私は思いますがね」
右手で小さく挙手しながら意見を述べるのは、航空宇宙運輸安全保安機構理事長:マシュー・ヴァン・スペンサー。
「『勿体ない』とは、どのような意味でしょうか」
すかさず言葉を返しスペンサーを睨む羅。その眼には羅の内心を見透かすスペンサーのほくそ笑んだ表情が映り込む。
「だって、そうでしょう。日本は近代列強で初めて滅んだ国家、そのしくじり国家に連合が手を差し伸べる……」
「なるほど、連合が名実ともに国家の次元を超えた存在であると、知らしめることが出来るという訳ですな」
スペンサーの言に乗っかるように、桑茲府官房長官:ウォルター・J・シュリッツが口を開く。
「ならばその使命を負うべきなのは連合から在地統治を委任されている州ではないか?」
羅も負けじと自説を展開する。
「たかが二次組織風情が行政主体ぶるのは如何なものですかな」
「言葉には気をつけて頂きたい、ニコライ行政官」
「しかし行政官閣下の言うことも一理ある、どうですかもう一人の行政官殿」
「スペンサー理事長、貴殿の態度はおおよそ議論に臨むものとは思えないのですが」
「羅もスペンサー君も落ち着け」
過激化する羅とスペンサーの言い争いに、口を噤んでいたホアンが制止をかける。
「しかしホアン理事長はどのようにお考えですかな」
ホアンの施策の方向性をイマイチ確認できないニコライは、ホアンを一瞥してそう問いかける。
「私は日本州昇格については前向きに検討している。条件さえ揃えば……」
「まずは前提が破綻しているということを理解すべきでないでしょうか」
「羅、これは単なる通過点に過ぎない。もっと議論を深めるべき課題は他にある」
「私も同感です、だからこそここは承認取り消しを早期に決定し、次の課題に取り組むべきでは」
「出身州への利益誘導は陪臣倫理に反する」
「では個人への還流は不問だと言うのですかね、スペンサー理事長は」
「世界に利益を供するため、日本州は昇格とするべきだ」
依然として議論は平行線のまま。同じような議事進行を陪臣たちは数か月も繰り返し、一方で官僚や司法関係者たちは膨大な量の事務作業にてんやわんやであり、上下階層の温度感の差異は密かに理系派内に軋轢を生じさせつつあった。特に単独で行政組織を所管しない羅の本案件への認識は、殊の外ホアンのそれとは大きく異なっており、あろうことか派閥内に新たな差別化を惹起させる予感さえも周囲に振りまく始末だった。
「スペンサー君の言う通り、日本州昇格は間違いなく世界に良い影響を及ぼすでしょう」
シュリッツの言葉に、ニコライが頷きを以て賛同を示す。
「……しかし、もし日本州昇格となったとして、領域はどうなるのでしょうな」
次いで発言したのは、世界民政向上機関の機関長:ファクタ・マルグラーヴィオ。齢八〇を過ぎてなお衰えぬ政治スタンスは、一方で新進気鋭の執行部会長:シルヴィア・モンテルン=ストールにとっては良い手玉でもあった。
「なるほど確かに」と口を開いたのは隣席のシャルル。
「辺境伯の仰る通り、現在日本列島には三つの自治区が存在しています。元々ヘルマンはそのうちの一つ――日本自治区に州昇格を打診してたようですが」
日本列島に存する三つの自治区――日本自治区、朙靕地区、筑紫自治区。この内日本自治区は坂出財閥が二二世紀中頃に行った「マサカド計画」によって連合から承認されており、他のいずれとも違いいわば正統派自治区、日本国政府の正当な継承体といえる。
朙靕地区。元は太平洋ベルトと呼ばれる工業の盛んな地域で発展した中京地域であり、日本国政府の瓦解後は経済力を以て自存し、その力を欲したLC社によって企業城下町となった。正確には〝自治区〟ではないものの、LC社の専権事項である帯電結晶加工事業を無視できない複雑な事情により事実上の自治区となっている。朙靕の由来については、日本支局長として赴任したシュゼ・ニヤによる命名であり、公にはされていない。
そして筑紫自治区。遥か昔、奈良盆地で覇を唱え各地へ進出していった大和朝廷は、統一国家の樹立を企図し九州へ兵を進めた。対する筑紫君磐井は、押し寄せる大和朝廷の軍勢に頑強に抵抗したものの敗れ去った。時を経て日本国政府が瓦解すると、九州には大きく分けて二つの勢力が現れた。一つは九州より起ち東へ進むべきとする≪ヒコホホ派≫と、もう一つは九州のみで単立し存立を保つべきとする≪ウガヤ派≫である。≪ヒコホホ派≫は日本自治区の密かな繋がりを以ていたが、≪ウガヤ派≫は大東亜州と接触し対外承認を成し遂げ、古代日本で大和に反抗したとする一点を以て良しとした大東亜州によって〝筑紫〟の号が与えられた経緯を持つ。
「それは日本自治区が中心となって行うべき仕事でしょう。我々がそこまで関わる筋合いも、義理もありませんよ」
「しかしスペンサー君。それならばまずは益江事件の総括を終わらせてでないと法的根拠は担保しえないことになるが」
「ですから早く総括を行い、日本自治区に対して州昇格の決定を通知する。理事長はそれから在地行政区分の改編にあたれば良いではないですか」
「火事場泥棒的な決定通知に従うほど在地社会は甘くありませんが」
「ならまた同じ議論を来年に持ち越すというのか!」
今度はホアンが声を荒げる。
「もうすぐ代議士院議会の会期が終わる。本来ならば今会期で総括と弾劾決議を成立させて協調協約憲章改定作業に入れるはずだったんだ!」
代議士院は在月代議士院と在地代議士院から成る二院制である。ホアンのプランでは、二二〇四年度会期――即ち益江事件発生年に即座に非難決議を出し、その勢いで五年度会期に総括及び弾劾決議を出す狙いだったが、羅の想定外の抵抗で頓挫している。ホアンなりには羅に配慮していたものの、時間が無為に過ぎることは反文系派の熱が冷めていくことを意味していた。鉄は熱いうちに打てという諺の通り、凝り固まった限界体制を変革するには時間的な制約があることをホアンは知っていた。
「理事長、過ぎ去ったことを悔いても仕方ありません。今できることをリストアップして早急に対策を講じ、時間的な遅れを取り戻すことを考えていくことが大事です」
そんなホアンを、シャルルは冷静な言動で宥める。
「……、ああ……」
「今期常会の閉会はいつかね」
ニコライの言葉に、シュリッツが淡々と「五月末」と応える。
「なるほど来月……これは臨時会を召集するしかありませんな」
嘆息を交えつつニコライがそう呟く。一見すると、臨時会招集についてニコライが何を気苦労する必要があるのか判然としない反応だが、その疑問は同様に『なぜ昨年度に臨時会を召集しなかったか』にも掛かってくる。
「然り。しかし在地代議士院が賛成しなければ今年度も終了、イチからやり直しだ」
疑念への答えは即ち、在地代議士院の一二人会への抗議行動にあった。この行動原理も一枚岩ではなく、州昇格を認めない大東亜州と三色ルーシ州の派閥の反対票、文系派マターの昇格承認に異議を唱えるパルサ同盟州とアメリゴ州の派閥の反対票、みだりな州の増加が秩序破壊へ繋がるとするリビヤ州とイターリア州の派閥の反対票などがあり、また同州出身者だからといって同様の行動をとるとも限らないので、まこと複雑怪奇な情勢が事態をより一層混迷化させていた。
「当分の間、憲章改定の件は伏せておいた方がいいでしょう。混乱を避ける為の手段として、改定行程は内密に」
スペンサーの言葉に、ホアンはゆっくりと頷く。
「次回、我が優秀な検事総長クロエ君が状況説明に立ってくれる。そこで具体的な検討案をいくつか挙げようと思う」
「理事長に賛成」とスペンサー。
「同様、賛成」
「同じく」
ニコライ、シュリッツが応える。
「……承知」
明らかに不承知な態度で明後日の方角を睨みつつ、羅は離席する。
「主だっての方向性は、①日本自治区主体の日本州昇格、②他の政体による日本州昇格、③昇格を認めず現状維持の三つでしょうか」
シャルルは明確に次回の議論の枠組みを唱える。
「ええ、そう……」
しかしホアンはシャルルに視線を向けるなり、僅かに硬直する。
「理事長?」
散会のガベルを打ち鳴らそうとするシュリッツがホアンの様子を窺うと、ホアンは何ともなかったかのように姿勢を正し散会を促す。
「では今回の会議はこれにて散会とする」
ガベルの合図と共に、陪臣たちが会議室を去っていく。ただ一人ホアンだけは、シャルルの座っていた席を見つめながら、微睡みの中に落ちていくのだった。
≫六≪
夕暮れ時のマンション。暮れるとあるものの実際には日は昇ったままであり、月面に住まう人々は光に照らされた環境下で自らを暗闇に包み込み強引に「一日」を終える。
月面都市造成計画では、クレーターの窪地内部に都市を建設する上で地球環境と大きく異なる日照時間及び平均気温への対策として、天上に張り巡らせるドームカバーに24時間周期の遮光機能を備えさせようという案が浮上したものの、耐熱耐冷加工の保温機能が優先されたため取りやめとなった経緯がある。
「由理ちゃん、ご飯炊いてないよぅ」
「えっ、嘘!?」
泣く泣く炊飯ボタンを押す奈佐の背中を摩りながら、由理は夕飯の支度を構わず続ける。
「あれ、今日の炊飯当番由理氏じゃなかったっけ」
リビングから顔を覗かせるのは、空腹と退屈とに圧し潰されそうな千縫。
「え、えっと……?」
「全く、由理ちゃんは……」
「ゆ、許して……!」
許しを懇願しながら支度を進める由理。その手元には魚の切り身が三切れ、真新しいまな板の上に載っている。
「由理氏、それは?」
「これは養殖ブリだよ。スーパーで安くなってたから」
「養殖魚なくして月面進出はなかった、ともいわれるほどだもんね」
月面に始めて生活の根を張ったのは、一方では魚類であったともいわれる。元々地球における過剰な人口増加の煽りを受けて宇宙空間へ逃避しようとしたのが二一世紀における宇宙進出欲だったのであり、大気圏外生存圏確保の手段が講じられる中で具体的に挙げられた方策の一つが大規模食糧製造区画の整備だった。即ち、人類は宇宙で食糧を調達し、地球へ逆輸入することを真剣に考えたのである。その状況下で白羽の矢が立ったのが、他ならぬ魚類の養殖だった。
「宇宙史は宇宙食史とも形容される。何なら今私たちが食べようとしている由理氏の料理も、いわば宇宙食ってこと」
「最初は難儀したけど、三日くらいで低重力環境に慣れたよね」
「なさっちは結構グロッキーだったけどね」
「由理ちゃんも目に見えて不機嫌だったけどね」
「お、お腹空いた……」
混沌な会話が何気なく続いていく日常。しかしそれはアサミや坂入真佐といった大人のいない日常でもあった。
「あれ、大根どこだっけ」
「確か野菜室だと思うよ」
野菜室。冷蔵庫内の収納区画の一つ、というわけではなく由理たちの住むマンションの一室にある野菜保管庫のことである。住民共通の保管庫であり、定期的にアリスタルコス特別区地方政府民生委員会から棟単位の支給品が隔日ごとに納入されている。支給品は主に野菜と即席食品で、あくまでも補助的な品目だったものの住民からの声は好意的なものが多い。特に野菜に至っては月面都市近郊栽培のものが支給されており、汎人類保食神総括機構の宣伝効果を期待する向きもあったことから、比較的平穏な運営が行われている。ちなみに由理はレタスがお気に入りだった。
「じゃあ私とってくるよ」
軽い足取りでリビングを出ていく千縫を見送って、由理はブリの下ごしらえを進めていく。
「なんか手慣れてるね?」
「向こうで何回かやったことがあるんだ……浅黄さんとね」
由理の脳裏に浮かぶのは、かつて益江町で過ごしていた頃の、浅黄と仕込んだ夕飯の思い出。既に二年程度の時間が空いているとはいえ、由理にとってはすっかり体に染みついた調理工程。
「じゃあ懐かしの味をご相伴にあずかるってことだね」
「そうそう、楽しみにしててね」
「ゆ、由理氏!」
そこに慌てた様子で部屋に戻ってきたのは、大根を両手に抱える千縫。
「お、どうしたんだろ」
不思議そうにキッチンから顔を出す奈佐は、千縫の背後にもう一人人影があることに気付く。
「あ、あ……」
懸命に口を開こうとする千縫が、どこか水面で餌を求めて口をパクパクさせる魚のようにみえた由理。クスっと笑みをこぼしながら、由理も奈佐と同じようにリビングへと移動する。
「随分と楽しそうじゃない?」
ひょっこりと玄関から顔を覗かせたのは、誰でもない、アサミその人だった。
「あ、アサミさん?」
思わぬ来訪者に、由理は開いた口が塞がらない。
「でもさすが坂入さんね……、都心部近くのマンションでこんなに広い部屋を借りられるなんて」
「ど、どうしてここに?」
突然の出来事に、由理もそう聞かずにはいられなかった。半年間音沙汰なく、拘束されたままのアサミが、まるで仕事から帰ってきたような日常の時の流れのまま由理の目の前に佇んでいる。
「どうしてって、あまり歓迎されてないのかしら」
「あ、たぶん由理ちゃんは驚いてるというか」
奈佐の言葉をうけて、アサミは訝しげに首を傾げる。
「確か特務課の人にはこういう話が流れていたはずだけど」
「確かに誉志さんからはそれらしい話は聞きましたけど」
「そう……私がいない間いい子にしてた?」
「言われなくてもしてましたけど?」
反射的に言葉を返した由理。咄嗟に顔を隠す千縫と、苦笑しながら大根を受け取る奈佐。
「って、もうそんな年頃じゃないんですけど!」
少し時間を置いてから、自らの言葉の意味に気が付いて慌てて声を荒げる由理だったが、アサミ含め三人は素知らぬ様子で夕食の支度を続ける。
「あ、アサミさん」
観念した由理が、皿を分けるアサミに声を掛ける。
「なにかしら」
髪をまくりながら、アサミはキッチンの由理に目を向ける。
「お帰りなさい……無事で何よりです」
「ただいま、由理」
ほんの少しの穏やかな時間。ふと奈佐は由理の元に駆け寄る。
「ブリ三切れしかないよ」
「ああ、それなら大丈夫よ」
「だ、大丈夫とは?」
アサミのその言葉の意味が分からなかった三人だったが、その答えは程なくして分かった。
「いやあ、待たせて悪かったけど、まさか同じ献立を考えていたとは思わなくてね、まあこの場合だとラッキーだったか」
玄関から現れたのは、手提げバッグ一杯に食材を詰め込んだ坂出成宣だった。
「げっ」
反射的に玄関から目を逸らす由理。
「いやいや、思いのほか買うものが多くなっちゃって、使ったよね、タクシー」
「あれほど節約するって言ってたのにねえ」
机上に置かれたバッグから、野菜やら果物やらがゴロゴロと転がり落ちていく。そしてバッグの下に入っていたのは、まさかのブリの切り身。
「いや、野菜の下に切り身入れちゃダメでしょ」
慌ててバッグからブリを取り出す千縫。一方で奈佐は床に転がっていく野菜たちを拾い集める。
「あれ、由理ちゃんはどこだ」
「ここですけど」
成宣に視線を合わせずに応える由理をみて、成宣はどこか安堵した様子で数回頷く。
「なんでおっさんもここに?」
「なんでって、円卓ビルまで迎えに行った帰りにそのままお邪魔したのさ」
「ふうん」
早々に成宣の言葉をスルーして、由理は千縫からブリを受け取る。
「そうか、由理ちゃんの手料理が食べられるんだな」
「げ、おっさんも食べてくの?」
由理は顔をしかめつつ成宣をチラリ。
「そりゃあ今日は何も食べてないからな」
腹を押さえて空腹をアピールする成宣。
「成宣さんは塩分控えないといけないんじゃない?」
「そんなこと言ったら宇宙じゃ何も食えなくなるじゃないか」
アサミと成宣の寸劇をよそに、由理は淡々と支度を進めていく。そうしてしばらくしてブリ大根が出来上がると、由理と奈佐、千縫はいつものようにテーブルで食事につき、アサミと成宣はキッチンで立食する。
「うーん、美味しい」
「これはなかなか」
奈佐に続くように、千縫も由理のぶり大根に舌鼓を打つ。
「ふむ、こんな柔らかいブリは久しぶりに食べたな。どっかの施設長とは大違いだ」
「何か言ったかしら……」
「いや、何も……」
和気あいあいと進む食事風景。千縫が完食し、奈佐もあと一口、由理はまだ食べ終わっていないというところで、アサミが口を開く。
「そうそう、由理に伝えないといけないことがあってね」
「わ、私に?」
詰まりかけたご飯をお茶で流し込むと、由理は背後のキッチンに顔を向ける。
「そろそろここは下がらないといけないわ」
「下がる……ここを?」
困惑する由理にアサミが言葉を重ねていく。
「ここは坂入さんの別邸。あまりお世話になってばかりでは申し訳ないって思うの」
「いえいえ、パパは全然ここを使っていいって言ってるので」
すぐにアサミの気遣いを宥める奈佐だったが、一方でアサミは由理を見つめたまま、奈佐には反応を返さない。
「でも、突然そんなこと言われても」
「そうそう、なさっちが大丈夫って言ってるんだし、それになさっちのお父さんは仕事でしばらく帰ってこないんだろ?」
千縫も不満そうにアサミを見る。
「そういえば、近々坂入さんも円卓ビルで事情聴取に応じるみたいよ」
「なら、その時お父さんに聞けば良いじゃないか、なさっち」
ところが、奈佐はアサミの言葉を聞くなり視線を天井へと向け、千縫の言葉には「うーん」とだけ返す。
「理系派陪臣の一人に羅啓明という奴がいるんだが、こいつが厄介でね」
「成宣さん」
戒めるように名前を呼ぶアサミに、成宣は両手を上げて首を横に振る。
「知ってます、羅啓明。確か行政官の一人でしたよね」
誉志から聞いた情報ではあったものの、由理も羅については知っているつもりだった。
「ホアン理事長との話はついていると親父から聞いてはいたが、どうも羅行政官が不満らしい」
成宣の父親である坂出重成は、日本自治区に残って益江事件後の区政の舵取りを行っている。州昇格承認停止が解除されるまで、重成は財閥を動かしつつ捜査当局の要請に協力する態度を見せているが、その余裕綽々な態度は他ならぬ理系派との裏の繋がりあってこそのものだった。
「初めからそのつもりだったんじゃ」
千縫の言葉に、奈佐は頷きつつも「いや」と口を開く。
「パパも理系派の動きは想定範囲だったって言ってるし」
「じゃあ、翻意したってこと?」
そういって由理はアサミを見る。
「…………」
しかし依然としてアサミは口を噤んでいる。
「由理ちゃん、良い機会だしお部屋探ししてみたら?」
「な、なさっち」
「ほら、折角月面に来たのに、この狭い空間で過ごすだけってのは、勿体ないかなって」
「勿体ないも何も問題が解決したら帰るだけだからここでシェアハウスしてるんじゃないの」
「由理ちゃんがいい感じの部屋を見つけて、そこに後から私たちが合流する」
「合流って……」
困惑する由理だったが、奈佐の言葉に促されるようにもう一度アサミを一瞥する。
「奈佐ちゃんの言う通り、これは経験でもあるのよ。旅行気分を味わうのもいいんじゃないかしら」
「はあ……」
一方で奈佐はアサミの様子を窺うかのようにちらちらと視線を向けている。その様子に違和感を覚える由理だったが、口にすることはなかった。
「何かいい部屋を見つけたら俺に言ってくれ、話を通しておこう」
「ええ……」
不意に訪れた引っ越しの時。二年間過ごしてきた坂入真佐の別邸を出て、新しい部屋で始める新たな日常。アサミの思惑を知らぬまま、由理は奈佐と千縫との新しい生活を求めて、物件探しに繰り出すことになるのだった。
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