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訪問記「湫尾神社/武田氏館」@勝田武田

 今季最強級の寒波、いかがお過ごしでしょうか。
 降雪が多いのは日本海側とのことですが、関東北部の山沿いも降ったりやんだりの繰り返し。雪は降らずとも、昼夜問わず寒すぎて冬の本気を感じざるを得ない今日この頃。
 そんなこんなで今回私が訪れたのはこちら。

木製の鳥居

 こちら、「湫尾神社」です。〝湫尾〟と書いて〝ぬまお〟と読むそうです。

 社号標に刻まれている社名の上部に不自然な窪みがありますね。調べてみると湫尾神社は近代社格制度で村社別格だったそうで、恐らく戦後GHQの〝神道指令〟に従って消し込んだのでしょう。
 そんな神社ですが、こちらにはもう一つ由緒がありまして……

 実はこの場所、甲斐武田氏発祥の地でもあります。最初の記事タイトルの地名で「おや?」となった方もいると思いますが、この神社のある場所を武田といいまして、後に武田信玄を輩出することになる甲斐武田氏の歴史はここから始まりました。

 系図によれば、新羅三郎義光の三男義清が武田郷に住して武田を名乗ったことから、武田氏の発祥となったとのことです。

 やはりイメージとしては武田=甲斐の印象が強いですから、その武田に由緒のある、しかも発祥の地が茨城にあるのは意外かもしれないですね。

 とはいえ、大学で平将門を研究していた私からしてみると、やはり〝なるほど〟といった納得感の方が強かったです。
 なぜ常陸なのか。その縁を追ってみましょう。

 当時の常陸国は〝大国〟に位置付けられ、緑豊かで実りある豊穣の国として知られていました。同じ坂東の上総国・上野国と並び「親王任国」として扱われるなど、東国随一の繁栄ぶりでした。当然、常陸国で成功したいと願う者は多かったようで、京の中央政界で栄達の望めない下級貴族や臣籍降下した王臣子孫たちは新天地を求めて常陸へ赴くことが多かったようです。
 国司として赴任し、任期を過ぎても京へ戻ることなく、その土地に土着し勢力を広げていく。律令制が形骸化し始めた平安中期頃から、その傾向は強くなっていきます。常陸国における武士の萌芽といえば、やはりこの方です。

 平将門の父親である平良将は、他の兄弟である良兼や国香と共に常陸国に住し、父である平高望(高望王。臣籍降下し平姓を賜う)と共に常陸国を開拓していきました。しかし、良兼や国香が土着の源護一族と縁戚関係を結んだのに対し、良将は縣犬養氏と結ぶなど、路線を異にしてきました。そのズレの到達点として、将門の国香・良兼らとの紛争に繋がっていきました。
 将門の闘争はその後反乱として扱われ、平貞盛・藤原秀郷連合軍に鎮圧されましたが、この乱に携わった人々の子孫たちがその後の武家社会の礎を築いていくことになるのですね。

 まずは、平氏。後に平清盛を始めとする伊勢平氏などを輩出するのは平貞盛の流れ。平将門の乱を鎮圧した貞盛は常陸国に多くの土地を手に入れ、子孫を送り込んで勢力を広げていきます。中でも貞盛の直系は維将・維時と続き、平直方へと続いていきます。
 一方で、貞盛の弟繁盛の子である維幹を養子にした貞盛は、維幹も常陸へ送り込んで更なる勢力伸長を図ります。この維幹の流れから出る氏族こそ大掾氏であり、維幹が常陸大掾職を得たことに由来します。時が下り資幹の代から大掾職を世襲するようになり、実際に大掾氏を名乗り始めたのは資幹の代からとされます。

 次に、源氏です。将門の乱では直接武功を上げたわけではありませんでしたが、乱の発端となる告言を行った人物が六孫王経基、源経基です。経基は将門の乱の際には京から派遣された官軍の副将として現地に赴くはずでしたが、道中で既に鎮圧されたとの知らせを受け帰京。その後純友の乱でも鎮圧に間に合うことはありませんでした。
 一方、経基の子である満仲、そしてその子の頼光は摂津国多田の地で武士団を結成し勢力を拡張。また満仲の三男である頼信は頼光同様、当時栄華を極めていた藤原道長の元に出仕しており、源頼信は〝道長四天王〟としても知られています。
 そんな頼信ですが、上野介への任官を切っ掛けに坂東への進出を図ります。源氏が坂東に戻ってきましたね。
 源氏と平氏の邂逅、その収束点として位置づけられるのが、「平忠常の乱」です。

 平忠常は、将門の叔父で良将と同じく源護ではなく別の氏族と姻戚関係を結び武蔵国を中心に勢力を広げた平良文の孫です。
 忠常の乱に際し、朝廷は誰を追討使として送るか陣定を開きます。初め右大臣:藤原実資は源頼信を推薦しますが、関白:藤原頼通によって平直方が選ばれます。しかし、直方は一向に乱を鎮圧できず、結局直方は召還され代わりに頼信が派遣され、乱は鎮圧されました。
 この乱の結果、坂東では頼信を始めとした源氏の名声が高まり、坂東平氏の多くが源氏の配下に入りました。これにより、河内源氏の坂東進出は確固たるものとなりました。
 その後直方は自分の娘を相模守に任ぜられた頼信に嫁がせていますが、同時に直方の本拠地であった鎌倉を頼信に譲渡しています。源氏の都:鎌倉はここから始まりました。
 頼信の子頼義は前九年の役の際に、坂東武者を駆り出して奥州安倍氏を滅ぼし、そしてその子である八幡太郎義家も、後三年の役で奥州清原氏を滅ぼすなど、東国での活発な活動によりその後の源氏政権の種を蒔いてきました。

 ここで話が戻ります。頼義の子で義家の弟の新羅三郎義光がなぜ常陸に勢力を広げようとしたのか。
 一つは常陸国が大国であること。
 一つは常陸国が源氏にとって因縁深い土地であること。
 この二つが大きなポイントでしょう。

 ところが、武田義清・清光親子は縁戚の常陸大掾氏の吉田氏に乱行を告発され甲斐へと配流されてしまいました。甲斐武田氏の初めは、配流によって始まったのですね。

 話が長くなってしまいました。それほどこの場所は歴史的にも大きな意味を持つ史跡だと思います。

再建記念碑2011/12/27

 はじめの画像の通り、鳥居は木製だったのですが、311以前は真壁石製の鳥居だったようです。

鳥居をくぐり参道下より
参道向かって左手の手水舎
左手
右手

 こちらの社殿ですが、311の震災も耐えていたところ、平成25(2013)年に不審火によって焼失してしまったようです。

⇩当時の様子を記した新聞記事や、再建前の様子が分かる記事です⇩

 どうやら不審火は放火の可能性が高いようですが、以前の社殿は茅葺だったとのことで、何とも悔しい話ですね……。

左手の境内社(どちらか分からず)
猫?
右手境内社(中に干支の丑置物があった)
扁額
右手狛犬
左手狛犬
再建(2018)とのことで、綺麗な社殿
今は銅板の屋根

 さて、湫尾神社があるこの土地は何度も言う通り武田氏発祥の地。大抵の場合、そういう場所には石碑と簡素な説明板で済まされることが多いですが……

神社裏手にある

 あります!
 資料館「武田氏館」です!!

館内見ましたがこれで無料!?という感想です。
行かれる方は必見ですよ。
お馬さん(謎の見切れに愕然)

 ちなみにこの時、空は雲がほとんどないくらいの青天だったのですが、風が強く震えるほどに寒かったです。

こういう土地の歴史と文化に根差した地方創生が増えてほしい
上から蓋を被せることだけが地方創生ではない
説明板に詳しく歴史的経緯が記されています
源(武田)義清と清光親子の想像図
天保年間の近辺地図。

 今となっては殆ど面影がありませんが、地図中央下にある沼は恐らく今も残っています。陸上自衛隊勝田駐屯地の敷地内にある池が、たぶん比定されるのでしょうか。詳しくはグーグルマップを見てみてください。

 他にも展示品はたくさんありました。気になる方、ぜひ足を運んでみてください!

ありがとうございました!

 ということで今回は茨城県はひたちなか市の湫尾神社/武田氏館を訪ねてみました。この『郷土史碑探訪録』シリーズ始まってから初となる大きめの史跡スポット訪問でしたが、大変良かったです。以前から行きたかった場所だったのですが、こうして実際に足を運んで周辺の地理的雰囲気を肌で感じることができたのは本当に良い体験だと思います。
 ぜひ武田氏ファンの方も、オリジンの地であるここ武田でその歴史に思いを馳せてみるのもいいでしょう。

 今回もお読みいただきありがとうございました!
 よろしければ他の記事も読んでみてください。
 それでは、スキマニウムでした!!

▽おまけ(飯テロ注意)▽

那珂湊漁港の〝やまさ〟さん

 この後那珂湊で海鮮丼を頂きました。こちらに足を運ぶ際には、那珂湊や大洗まで足を伸ばしてみるのもいいかもしれません。結構近いですよ!

大洗の海。めちゃくちゃ寒かったけど天気が良かった

 ではでは、またの機会に!

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