時空を操る人類の、次の「人生」
現代社会では、かなり多くのものやことがあふれている。インターネットは見たい時に見ることができ、洗濯もしたいときにすることができる。髪を切ることも、飯を食べることも、何をするにも自由自在だ。しかし、本当の自由を考えたときに、それは何なのか再考する必要がある。
本当に今、人類は自由なのか?
羽田空港からロサンゼルスやロンドンに簡単に行けるようになった。電車で、少し遠い場所にも行けるようになった。電話やスマホの普及で地球の反対側の人間とも動画で会話できるようになり、ついには拡張現実や量子コンピュータで、五感の大半を再現できるようにもなってきた。そして、宇宙にも手を伸ばすことができ、時空を操ることもできるようになってきた。
ここでは、別段宗教くさいような、怪しい考えを流布つもりはないが、いろいろと個人的な見解が強く出ている強烈な投稿が連発していることは否定できない。しかし、やはり最近思うことにこれまでの人類史やこれからの人類の行く末、生活の変容などを考えるにあたり、思考の一環としてここで述べたいことがあった。
それは上記に述べたような、本当に人類は自由なのか?という問いであり、それを考えるにあたり、ひとつのフレームワークを提案したいと思うのである。それは、宗教とテクノロジー、ないしはグーグルやメタバース、宇宙などとの関連性である。宗教では、神という形而上的な存在があり、それに対して教典や聖書などといった文献があり、ひとつのセットとなっている。これは、教典や聖書をもとにして神という存在がいかようなものかを知る、ひとつのゲートになっていると考えられる。
そして、それらは「信じる」ことにより関係性が保たれている。一方で、グーグルやメタバースなどは、現代の神だともいわれることがあるが、あれはあながち間違いではなく、大量の情報を保有している存在として、神のようなポジションをもらっていることに何ら変わりはないと思っている。人々は、インターネットや通信技術を通じたメタバースに毎日出かけ、そこで新しい情報や概念を知る。これはスマートフォンやVRデバイス、それに続くようなインターネットにつながったデバイスを主体に行われていくが、ある意味、このデバイスというのは、過去の教典であり聖書に近いものであると思っている。
聖書は、信じるために必要なものであるが、スマホは、知るために必要なものだ。現代においては、メタバースや宇宙に関して知識を得るために、スマホなどのテックツールを使う必要がある。そこで問題なのが、スマホなどのツールが、どのように使われているかである。
何を言っているのかといえば、過去の聖書や教典は、もっぱら神話や神を信じるため、それらを知るための存在であった。そこはどんな場所で、何がいて、どのようなことが重大であるのかを認知するためのツールであったわけである。一方で、スマホはメタバースや宇宙などの形而上的存在に対して、知る行為を促すための必要なものであり、それは帰結的には使うことが重要なファクターになりうるのではないかと考えてもいる。もちろんこれは一種の思考実験なので、間違いかもしれないが、聖書や教典の帰結的な役割は知ることであり、スマホの役割は使うことになるとしたら、次の時代において何を重要視されるのかといえば「使う」ことだと思われる。
そして、それは現代においてはかなり重要な意味を持つと思っている。地球温暖化が進行し、ないしはテクノロジーが発達するにつれて、わけのわからないものやサービスがあふれてきてもいる。コンピュータゲームも、昔はシミュレーションソフトなどは数が限られていたり、クオリティが低かったりしたものだが、今は些細な現象や日常に関するシミュレーションを高度な映像美で再現でき、満足してしまっていたりする。そして、それは次世代のテクノロジーの台頭によってさらに加速するものと思われる。
では、先ほどの文脈をつないでみると、使うことに必要なものとは何なのか?ということであり、このような考え方は、歴史や科学だけではなく、形而上的な思想も含んでいるために若干あてにしてはならないが、一考することの意味はなくもないと思える。
議論はここまでであるが、最終的に思うのはここまで様々なものがありふれているのにもかかわらず、パソコンのキーボードは文字を打つためのものから変わっておらず、スマートフォンは通信を介したものであることに変わりはない。それはもしかしたらスマホの形状に限界があるからかもしれない。つまりは、VRゴーグルにジェットエンジンがついていないで、仮想現実には行けるものの、宇宙には行けないのと同じように、物にかんしての使い方が一様であることが問題になると思っている。そして、そこに対して、様々な機能を付与できる現代だからこそ、最適なツールを考案することが求められてくるのではないかと思うのである。
個人的には、「Destiny 2」というゲームに出てくる、主人公の横にいる相方のロボットの存在は大きい。もしくは「ボーダーランズ」に出てくる、ロボットもそうだ。ロボットだから、別段ツールではないが、ものであることに変わりはなく、どのように人の役に立たせるのかはこれから人間が考えていかなければならないことだと思っている。
ここまで話して、何を言っているのかわからないとしても問題はない。これは飽くまでも、個人的な思考の整理に過ぎない。