
感度、特異度、徴候への敏感さと近代
疾病ありが検査陽性になる割合を<感度>、疾病なしが検査陰性になる割合を<特異度>という。

また、病気がまん延しているときは陰性だからといって全く安心できない(陰性的中率が低い)。

それに対して、病気がそれほどまん延していないときは陽性でも病気になっていない可能性が高い(陽性的中率が低い)。

つまり、陽性的中率/陰性的中率は、たとえ感度/特異度が同じであっても「病気の蔓延度(有病率)」によって大きく変わるのである(事後確率は有病率に左右される)。
ここからはまったくの推測だが、古代、極端に優れた感受性を持った憑依体質の人間が崇め奉られたのは、そこかしこに危険が蔓延していた世界において、彼ら彼女らが危険に対する「<感度>の高い」人間だったからではないか。
たとえその危険察知が的中せず警戒が徒労に終わった(=偽陽性、第二種の過誤)としても、危険なしとみなして一族が全滅する(=偽陰性、第一種の過誤)よりははるかにマシだったといえるであろう。つまり重要なのは、「偽陰性が少ないこと」なのである。この場合陽性的中率は低くなるが、そもそも「陰性率」が低いのでこれから述べる後者と比較してコストは増加しない。
それに対して、文明化、近代化が進んだ「安全な」社会においては、そのような感度の高い人間はいたずらに物議を醸すだけであり有用性が低いとみなされるようになったのではないか。
そしてそれまでとは逆に、「<特異度>の高い」、危険がないものを危険がないと判定しうる人間のほうが有用性が高いとみなされるようになったのではないだろうか。ここで重要なのは、先ほどとは逆に「偽陽性が少ないこと」ということになる。この場合陰性的中率は低くなるが、そもそも「陽性率」が低いので前者と比較してリスクは増大しない。
感度と特異度は検査の「カットオフ値」によって変化し、トレード・オフの関係にある。つまり高感度と高特異度は両立しないので、一般には「偽陽性も偽陰性も少ない」検査機器(=人間)を実現することはできない(疾患群と非疾患群の分布がきれいに分かれるような理想的な測定変数が発見されない限り)。
実際の検査においては、感度が高いにも関わらず検査陰性になることをもってして「除外診断」、特異度が高いにも関わらず検査陽性になることをもってして「確定診断」が行われる。だとすると「高感度者ですら危険を察知しないので確実に安全」「高特異度者ですら危険を察知したので確実に危険」と考えることができる。
従って、高感度者による「安全判定」はその事象にお墨付き(=信頼)を与え、それを安心してシステムに組み込むことを可能にする(除外診断)。他方、高特異度者による「危険判定」はその事象は必ず避けなければならないということを意味するので、危険回避行動を正当化する(確定診断)。
ただし、現実の社会においてはこのような「二次的な診断」に時間的、人的コストを十分に割くことはできないため(コストを掛けすぎると集団が絶滅しかねない)、有病率が高い場合は高感度者による危険検知の社会的受容、有病率が低い場合は高特異度者による安全検知の社会的受容が正当化される。
まとめると、高リスク(=蔓延度高)の環境条件においては、そのリスクを回避するために、<感度>の高い人間がたとえ陽性的中率が低くとも重用されるべきであり、一方で<感度>が高いにも関わらずリスクを感知しないことを持ってして「安全」判定がなされる。
他方、低リスク(=蔓延度低)の環境条件においては、いたずらにシステム運用コストを高めないために、<特異度>の高い人間がたとえ陰性的中率が低くとも重用されるべきであり、一方で<特異度>が低いにも関わらずリスクを感知することを持ってして「危険」判定がなされる。
システムが整備され、多くのものごとが設計可能、予測可能、制御可能になった近代においては「徴候」は軽視され、それどころか忌み嫌われ、否定される。徴候への敏感さは空振りに終わることが多く、また、システムの作動を妨げるノイズになることも多い。
システムは、それを「信頼」することによって初めて機能する。我々はシステムを信頼し、それと引き換えに<感度>を放棄する。そうすることによって我々の思考や感情もまた整流されるので、「我々を包含するシステム全体」も同様に一層設計可能、予測可能、制御可能なものとなる。ここで必要なのは「徴候への敏感さ」ではなく、「安心」である。
ただし、テクノロジーの急速な進歩とグローバル化を背景とする現代の「リスク社会」においては、感度=徴候への敏感さのが再び求められるようになるのかもしれない。要するに、「病気の蔓延度(有病率)」次第なのである。
他方、徴候への敏感さといわゆる神経症とはどのように異なるか、現代において神経症はどのように受け止められているか、といった点については改めて論じる必要があろう。
さらには、「徴候への敏感さ」と科学における「検定」や論理学における「真理保存性」、法における「推定無罪」の方法論を支える価値観との間にどのような関係があるかということも興味深い論点である。
そしてこの「徴候への敏感さ」を巡る議論は、現代的な倫理観を補強しもするし、阻害しもするものであると言えよう。
続いて、この「徴候への敏感さ」を、統計学におけるサンプリングとモデル、そして知覚心理学におけるモーダル/アモーダル補完と関連付けて論じる。(続く)