お帰りさないませ。
心法形無うして十方に通貫す。法法本来法。是も無く非も無し、日は昇り月は下る。『大愚遺芳』
この法語は開山大愚禅師の語である。
「心法形無うして・・・」とは臨済禅師の語録『臨済録』にある有名な一節。
「いかなるか是れ法。法とは是れ心法なり、心法無形、通貫十方、目前に現用す。」『臨済録』
私達は、心というそのままで素晴らしい真理の輝きを具えてるからこそ、ありのままに今日という一日を生かされている。
全ての物事はそのままで実相、真実でありそれに対し是非を問うことは愚行というもの。日が昇り月が下る。我が心も同意。
いうなれば花を見て、月を見て美しいと感じる心とは何か?
その心法に気付いてこそ、人生を心豊かに生きることが出来る。
しかし、なかなかそうはいかないのが私達の”こころ”という曲者である。
だからこそ面白いとも言えるのだが。
色眼鏡を掛けて、ああでもないこうでもないと自分の都合で計らってしまう。今回の展覧会においても、保存修理事業と重なり自分を見失うこともしばしば・・・情けない限りであった。
そんなことを考えていた今日の夕刻。
今回の展覧会特別公開の為に、大安禅寺外への御出杖は初となった開山大愚禅師が半年ぶりにご帰山された。
先日6日を以って展覧会は無事円成となったものの、どことなく落ち着かないでいた。
其れもそのはず、大愚禅師の居られない開山堂は寂しく待ちわびる毎日だった。だから、お帰りになられた御姿を拝見して、ようやく私自身安堵していることに気付く。
「お前さん、しっかりやっておったか?」と言われている様な何とも有難く温かい気持ちにさせられた。
そして安座された大愚禅師に、展覧会の成功をご報告し、また長期ご出杖への感謝の意を込めて読経を勤めた。
心には形が無いからこそ、時を超え大愚禅師の教えにも心を寄せることが出来る。
なんて有難いことか。
他人は言うだろう、たかが座像。
しかし私からすれば、されど座像。
全てはこの心が決めていく。
座像が有り難いんじゃない。
その座像に手を合わせずにはいられない我が心に気付かせてもらえていることが有難い。
そんな私に誰も是非は問えない。
また私も。
報恩謝徳 合掌