名月
今年の中秋の名月も、見とれるほどに美しかった。晴れ間に見える月では無く、雲間に煌々と輝く姿であった。またそれが一段と美しさを引き立てていた。
禅では、私達に本より具わっている仏心を「月」に例える。月は闇夜を照らしあらゆるものを明らかにしてくれる。しかし、雲が懸かればその明かりは届かない。私達の心も同じようにお月さんのような明かりを放っているのだけれども、こだわりやとらわれと言った計らいの心が執着心となり雲のように覆ってしまうことがある。
よく「忙しい」という漢字は、心を亡くした時と言うが決して心はなくならない。月も雲に隠れているだけで月その物が消えたわけではない。また、月は満ち欠けをするといって本当に欠けているわけではない。
本にかわりは無い。
私達も、はからいの心を解けば、そこには煌々と太陽の光を借りて、照らし返す月のような心が現れる。
その心で自分の苦しみという闇も照らし明らかにした瞬間、同時に回りも明らかにしているのであろう。
そういう瞬間を大切にできるモノでありたい。
きょうも
月が
きれいだ。
名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉