他人じゃない、「家族だった」瞬間まとめ
僕は、家族の素晴らしさについて語りたい。
僕にとって、”家族とは”
家の名の下に
互いにあらゆるものを押し付け合う人々で
そこには
役割があって、
投影があって、
承認があって、
思慕の情があって、
感染症のように防ぎようなく、入り込んでくる干渉の渦だ。
時に非常に暑苦しく、時に正反対に非常に冷たく感じる存在。
「他人ではない」人々。
「結局は自分のことじゃない。」と言えない関係性にがんじがらめになった集合体だ。
その集合体の愛おしさをいくら、この論調で語ったところ外縁を撫でるに過ぎないので箇条エピソード的にご紹介したい。
あらゆる感情の揺らぎはいつだって、ディティールにあるのだから。
少しでも胸にこみ上げるものがあれば本記事の目的はハンドレットパーセント達成したと言える。
○父が酒の飲み過ぎで、肝臓をやられ緊急入院した後、退院するも酒をドクターストップされたある日。
祖母(父の実母)が、父が買って来た缶ビールを全て捨て、当然、父と祖母で口論となった時、祖母が
「もうこの家に救急車は呼ばせません」
と言うと父が口をつぐみ、口論が終わった。
僕は、”親不孝”の意味をその時初めて理解したような気がした。
家族が救急車で運ばれた時の気持ちは形容しがたい。そして献身的に父の看病をする母の姿を病院で見た時、不思議とホッとする。
壊れかけたものを治す作業がそこにはあった。
父のことではなく、家族というものを。
俺の人生だ、俺の好きに生きさせろ。といって本当に好き勝手生きる訳にはどうしてもいかないんだ。
僕も父も、祖母も、母も
○僕が、会社勤めの初任給で特上寿司の出前を家族にご馳走した日のこと。
母は「いくらのやつにしたの?教えなさい」と自分がいくらのものを奢ってもらったかをしつこく知ろうとし、
妹は僕が感謝の発声をする前に海老に手を出した。
兄は「俺の時何もしてないから、こういうのやめろよ」とすし桶が来ている段になってまで未練がましく言っているし、
父はもちろん酒を飲みたがり、祖母はそれを諌めていた。
こんなにも勝手な人達に、僕は苦笑いをして勝手に感謝の言葉を捧げた。
この許された空間は、どうしようもなく、家族だと思った。
僕は腹をたてる事もなく、むしろ満たされていた。
○家族旅行で、道を間違えて「予定が狂った!」と母と父が喧嘩を始め、旅先で別行動を始めた時のこと。
僕と兄は、母と共に行動し、妹は父についていった。
こういう時の兄弟妹のいつものフォーメーションだった。
僕と兄は、母の怒りを消す為、露天商の食べ物をしきりに共に食べ、妹はただ無言の父の後ろをくっついて歩き、道端の、目に止まったものを一つ一つ報告するのだ。
特にこのディティールに意味はない。ただ子供達が分かれているという事が父母には意味があり、割と早く仲直りする。
”子はかすがい”という言葉を僕が知ったのは18も過ぎた頃だったが、僕らは自覚するかすがいだった。当時は小学生だったが
”僕らがなんとかしなくては” そんなことを子供ながら思っていたのだ。
もうそれぞれ30を過ぎた僕ら兄弟妹だが、もし同じような事が起こったらやはり今でも同じフォーメーションを取るんじゃないかと思う。
○まとめ
長くなりすぎるので、今日はここら辺で。
結局、”家族とは何か?”
ディティールを取り出して眺めてみると、その答えは多分それぞれが
「人間らしく生きようとするための、セーフティネット」
なんだと思う。
それが、図々しくも干渉して助けてあげているとか、助けてもらっている。とか思う正体なんじゃないだろうか。