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中国古典 明時代 「王鐸」 

1592年―1653年没
王鐸は孟津(河南省)の出身で、字は覚斯です。崇樵や癡庵など号を持っていました。
彼は三十一歳で明の進士に合格し、倪元璐や黄道周とともに翰林院に入りました。その後、南京や北京の礼部尚書を歴任しました。
明が清に征服された後、王鐸は清朝に仕え、弘文館大学士となりました。彼は『明史』の編纂の副総裁に任命され、礼部尚書の職を受けました直後に六十一歳で病没しました。
清が明の後の中国の主権者とあることを内外に宣言するため、征服した王朝が前王朝の歴史書を編纂することがあります。『明史』の編纂に参加することは、明の遺臣から見れば裏切り行為と見なされ、王鐸は節操のない人物として批判されました。
倪元璐や黄道周は明の国難に殉じ、また傅山は清朝に仕えずに節を守りましたが、王鐸は異なる選択をしました。

王鐸は詩文や書画のすべてにおいて高い評価を受けていましたが、特に書においては董其昌を凌ぐほどの名声を得ていました。彼は生涯を通じて、王羲之を中心とする古法帖の臨書に情熱を注ぎました。
中国文化は政治的要素が強い為、節操のない王鐸は、中国では評価されませんでした。一方、政治的な要素よりも美的な要素が重視される日本の書道界では、王鐸の人気が高い。現在、王鐸は日本の影響を受け、中国書法界でも人気です。

王鐸「高適詩」玄妙臨

〈高適詩〉
【釈文】
萬騎爭歌楊柳春。千場對舞繡麒麟。到處盡逢歡洽事。相看總是太平人。

・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」

墨玄会 主宰 玄妙 


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