中国古典 唐時代 「顔真卿」
709年ー785年没。
顔真卿は、書家であり政治家、武将でもありました。古から魯国に仕えた名門の出身で、字は清臣と言います。願家は学者や能書家を多く輩出していました。
顔真卿は、生まれた家は貧しく、幼い頃に父を亡くました。苦学のすえ、二十六歳で科挙に合格し進士となりました。
唐朝に強い忠誠心を抱き、剛直な性格でした。しかし、当時の朝廷では上官に疎まれて、昇進が進まず、中央から地方を行き来する人生でした。
顔真卿は武将としても活躍しました。玄宗皇帝の時代、楊貴妃への過度な寵愛や乱れた政情により、安禄山の乱が勃発しました。顔真卿はこの乱で大きな戦功をたてました。
彼の最期は、李希烈の反乱の際、自ら使者として派遣され、抵抗し続けたものの、反乱軍に殺されてしまいます。忠義な武将として活躍し、最後まで朝廷に仕える姿勢を崩しませんでした。
顔真卿の家系は篆籀や隷書の草隷を得意としましたが、彼は独善的になることを避け、草書の名手である張旭から楷書の筆法を学びました。
そして、「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」という楷書の技法[顔法]を生み出しました。起筆(始筆)が蚕の頭のような形で、右払いの筆先が燕の尾のように2つに分かれ、先が細く長く伸びる書き方です。
顔真卿の書は、王羲之の書風を、この顔法の書体で一新させましたが、当時、あまり評価されず、死後約300年後になってようやく高く評価されました。彼の書が素晴らしいだけでなく、人格が尊敬されたからです。
顔法はのちに柳公権に引き継がれました。
代表作、楷書の「願勤礼碑」「多宝塔碑」、行草書の「祭姪文稿」「祭伯文稿」「争坐位帖」があります。
〈文殊帖〉
宛名が欠けているが、文殊菩薩碑の文を作って、何人かに呈上する時の書簡。
【釈文】近作一文殊師利菩薩碑。 但欲發揚 主上聖意。蓋不近文律耳。今奉呈。充蓋醬之用。可乎。
〈顔氏家廟碑〉
願氏の系譜を始源から現在に辿る記述。
【口語文】
唐の故通議大夫。行薛王友・柱国・贈秘書少監・国子祭酒・太子少保たる顔君(顔惟貞)の廟の碑銘、ならびに序。その第七子、光禄大夫・行吏部尚書・充礼儀使・上柱国・魯郡開国公たる顔真卿、揉文ならびに書。
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