中国古典 元時代 「趙孟頫」
1254年―1322年没
趙孟頫は、字は子昂(すごう)といい、折江省湖州に生まれました。書家、画家、文人、政治家であり、南宋の王(太祖)の十一代目の子孫でした。
彼は二十六才の頃、宋はモンゴルによって滅ぼされ、元の王朝が成立しました。
その後、元の皇帝である清楚(フビライハン)に招かれ、元の歴代の皇帝に高級官使として35年間仕えました。
宋の皇族の出身でありながら、元の朝廷に仕えたことから、当時から後世まで非難を浴び続けました。元の官僚からも敵国の出身として軽んじられたと言われています。
しかし、彼は私利私欲で元に仕えたのではなく、漢民族の文化、特に中国南方の文化を絶や差ないためでした。同じルーツをもつ王羲之の書法を徹底的に身につけ、それを基にして復古主義(古典的な筆法や形を立ち帰ったもの)を貫きました。
各書体は非常に優れ、宋時代以来の書の流れを大きく変えました。進士の試験答案用の文字は欧陽型から、趙孟頫型に移っていったほどです。
代表作には「仇鍔墓碑銘」「漢汲黯伝」「与中峯明本」があります。
「玄妙観重修三門記」
玄妙観は著名な道観で、その三門を複製した記念碑です。趙孟頫が書いた楷行書はその美しさに圧倒されるばかりです。
〈玄妙観重修三門記〉
【訓読】
天地闔闢して、鴻枢に運り、而して乾坤は之が戸と為る。月出入し、黄道に経、而して卯酉は之が門と為る。是れ故に琳宮を建設し、玄象を摹憲す。外は則ち周垣の聯属、霊星の横陳、内は則ち重闥の劃開、閶闔の仿佛。崇[嚴〕に非されば以て制度を備うる無く、巨麗に非ざれば以て視瞻を竦つ無し。惟は是れ勾呉の邦、玄妙の観は賜額は改まれり、広殿は新たなり而して三門は甚だ陋
「後赤壁賦」
【訓読】
是の歳十月の望雪堂より歩し将に臨泉に帰らんとす。二客余に従い黄泥の坂を過ぐ。霜露 既に降り木葉尽く脱す。人影地に在り仰いで名月を見る。顧みて之を楽しみ行歌して相い答う。已にして歎じて日く客有れども酒無く酒有れども肴無し。月白く風清し此の良夜を如何せん
・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
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