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中国古典 明時代 「張瑞図」 

1570〜1641
張瑞図は、書家、画家、政治家でもあります。福建省泉州の農家に生まれ、雅号は二水・果亭山人・白毫菴・平等居士などと呼ばれていました。
38歳で科挙に合格して進士となりました。その後、翰林院で編修の官職に任命され、礼部尚書の高官などを歴任し、行政の中核に加わりました。
当時、権力をふるっていた宦官(かんがん)の魏忠賢は、張瑞図を特別に可愛がっていましたが、毅宗が即位すると、魏忠賢は失脚し、自殺に追いやられました。張瑞図もその一党と見なされ、辞職せざるを得ませんでした。その後、一時は毅宗皇帝に労われ、官位を贈られましたが、かつて魏忠賢の生祠(存命中の魂を祀る)を建てたことが発覚し、官職を剥奪され、身分を平民に落とされてしまいました。
その後、郷里に帰り、禅に心を寄せ、酒を好み、菊を愛で、詩書画の悠々自適な余生を送りました。

張瑞図は、二王(王羲之・王献之)や孫過庭、蘇軾から書を学びました。
彼の書風は、ナイフで切りつけるような鋭いタッチや筆圧、筆の遅速の変化に富んでおり、内側への収束と外側への放散の小気味よい造形が特徴で、独創性に富んでいます。
行書草書は特に優れており、邢侗(けいとう)・米万鍾(べいばんしょう)・董其昌とともに「明末の四大家」と称され、長条幅の連綿書で知られる書家でした。

張瑞図「嘗登高山」玄妙臨

<嘗登高山>
【釈文】
嘗登高山、下視城市、殆如蟻垤、不知其閒幾許人。憑高望之、真堪一唉。
【訳文】
かつて山に登り、都市を見下ろしました。まるで蟻の巣のようで、その中には何
人の人々がいるのかわかりません。高い所から見ると、本当にため息が出るほど美しい。

・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」

墨玄会 主宰 玄妙 


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