中国古典 唐時代 「李邕」
678年―747年没
李邕は揚洲江都出身で、字は泰和(太和)です。
後漢の高陽侯以来の名門の家に生まれました。父の李善は「文選」の注解をした有名な学者でした。
官吏(役人)として、前半は則天武后、後半は玄宗皇帝に仕えました。生まれつき豪放で放蕩な性格であり、贅沢を好む為、しばしば左遷され、最後は処刑されました。
六絶と言われ、文章・書翰・正直・辞・辨・義烈が他の人より優れていました。特に文章家として、碑文の内容に価値と名声があり、書や文章の依頼を寺院や高貴な人から受けて多額の謝礼を貰い、約800の碑文を書きました。
李邕は書を王羲之に学び、独特な雰囲気を持つ、骨気鋭く厳しい結構を持つ行書を最も得意としました。
しかし、碑文は楷書か隷書で書くのが一般的だったので、彼自身がこの碑文を刻させることはなく、著名な書道家たちに依頼していました。
伝統的な書風が主流だった唐時代から、個人の意(精神)を尊ぶ宋時代へと変わり、自由奔放、筆力剛健な革新書風へと発展します。李邕が亡くなってから約350年後、宋の三大家(蘇軾・黄庭堅・米芾)たちによって、彼の雄大な結構、豪快で骨気のある筆力な書風が中国唐時代の行書の名手として評価されるようになりました。
代表作には「麓山寺碑」などがあります。
〈李思訓碑〉「雲麾将軍李思訓碑うんきしょうぐんりしくんひ」現在に残る李邕の書中で最も損傷を受けていない碑。
【口語訳】
□□□□□□□□□□□□□書す。その家柄が王族の中で高く、才能が国中で秀でているのをみると、立派な人物であるという評判は広まり、その根元の働きは微妙で艶やかである。行動は必ず慎しかで長続きしており、言葉は必ず法典に適っている。人として威儀ある姿は、いうまでもなく天下の手本となっている。□□□□。一族を守ることでその世代を長くし、徳を努めて行うことで家門を挙げる者は、それは我が彰国公であろうか。公、諱は思訓、字は建、隴西狄道の人である□□□□。李信になって秦に移り、よくその任に報いた。子の李仲翔は謀叛する羌人を狄道で討ち、よって子の李伯考はここに家を構えた。孫の漢の前将軍李公、子の待中李敢□□□□
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