中国古典 清時代 「張裕釗(張廉卿)」
1823年―1894年没
張裕釗は、書道家であると同時に、文人としても深い学識を持っていました。湖北省出身で、字は廉卿、号は濂亭と名乗っていました。
23歳の時、科挙の地方試験である挙人に合格し、その後、中央政府の官僚となりました。曽国藩という有名な政治家の幕僚に入り、「曽門四弟子」の一人として重用されました。曽国藩の没後は、各地の学問所で教え、後進の育成に力を尽くしました。彼は生涯、学問を究めることを生きがいにし、古代の文章の研究においても重要な成果を残しました。
書道においては、最初は欧陽詢という書家の作品を学びましたが、後に北魏時代の「張猛龍碑」という石碑の書体に深く感銘を受けました。この碑の力強い書風を参考に、独自の新しい書体を確立しました。彼の書体は、北魏時代の石碑の力強さを表現するとともに、時間の経過によって風化した石碑の表面を思わせるような独特の技法を用いていました。
彼の書体は、当時の書道界で大きな影響力を持つ「碑学派」と呼ばれる流れに属しています。有名な思想家である康有為は、張裕釗の書を「千年来比するものなし」と絶賛し、書道界を再び盛り上げた人物として高く評価しました。
張裕釗の書を学んだ弟子の一人に、宮島詠士という人物がいます。宮島詠士は日本に帰り、書道教室を開き、張裕釗の書風を日本に広めました。宮島詠士は、張裕釗の書体の特徴である、筆を長く引いて書く手法を特に重視し、多くの弟子を育てました。
・玄妙個展2021「古典漫遊〜文字の変遷をたどる〜中国編」
・玄妙個展2022「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
・玄妙個展2023「古典漫遊 中国書法から日本の書まで文字の変遷をたどる」
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