中国古典 唐時代 「欧陽詢」
557〜641年没
欧陽詢は、隋から唐にかけて活躍した書家で字は信本といいます。陳国の潭州臨湘(湖南省臨湘市)の豪族の家に生まれました。南朝の「陳」から、南北が統一された「隋」「唐」の時代にかけて生き、この南と北の二つの文化が、彼の最晩年まで影響を与えました。
少年のころ、欧陽詢の父は謀反の罪で処刑されましたが、父の友人に引き取られ、罪を免れました。不遇な少年時代でしたが、欧陽詢は非凡な聡明さと学問の才能があり、優秀な官吏(官僚)として務めました。
隋では煬帝に仕え、太常博士(儀礼官)となりました。そして、唐の初代皇帝とも親交があり、王朝が代わっても唐に仕え、重用されました。
唐の太宗帝の時代、欧陽詢は大子率更命(皇太子養育係)となり、弘文館学土も兼ねて虞世南とともに書法の指導にあたりました。
欧陽詢の書は、「険勁(けんけい)[つよく硬い美しさ]」と評価されました。
南朝の「自然で美しい」王羲之の書と、北朝の「力強い」書法(造像記など)を合わせた書を発展させたと考えられています。
欧陽詢は、虞世南・褚遂良とともに「初唐の三大家」
また、虞世南・褚遂良・顔真卿と並び「唐の四大家」とも称されています。
〈九成宮醍泉銘〉
【口語訳】
金をも溶かす炎天にも、蒸し暑さとてなく、微風が静かにそよぎ、清らかな涼しさがあるのに至っては、まことに体を休めるのに、佳いところであり、まことに心を養うのに、優れた地である。漢の甘泉宮でさえも、この点では、かなわないであろう。
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