黄土高原を歩いた人々~百年前の中国調査旅行記から by 村松弘一(GEN世話人)
================
黄土高原に生きた人々の歴史物語。今回は百年前、黄土高原を旅した日本人学生の旅行記から。沙漠を越え、黄河を下り、ヤオトンを見て、排日運動に直面。どこか現代にも通じる1世紀前の「黄土高原だより」のお話です。
================
この夏、ある大学の集中講義で東亜同文書院中国調査旅行記という資料を輪読しました。東亜同文書院は1901年から1945年まで上海にあった日本人の学校で、学生たちは毎年5・6人一組で中国大陸をめぐる調査旅行をおこないました。今回、大学院生たちと読んだのは1925年に山西省を旅した記録です。百年前、黄土高原を旅した20代の学生が何を見て、誰と出会い、何を感じたのか、事細かく旅行記に書かれています。
山西陝西黄河流域調査班(晋秦游歴隊)と名付けられた5名からなるチームは、1925年5月24日、上海を出発、南京・北京を経由して、6月10日に内モンゴルの包頭に至ります。ここから馬車に乗り、途中、オルドスの沙漠を横切り、ベルギー人の神父に出会い、纏足(てんそく)の美人村、山のなかの横穴住居(ヤオトン)の村をこえていきます。農村では麺や油揚げ、粟の団子や粟粥をいただきながら、三週間、風呂にも入らず、渓谷地帯を南下します。黄河のほとりの第八堡ではじめて船に乗り、磧口鎮まで「黄河下り」を堪能します。船出の時には、爆竹で送り出してくれるほど、地元民から歓迎されていたようです。百年前の学生たちは黄土高原という「異世界」を楽しんだことにちがいありません。
ところが、出発から1ヶ月あまりたった7月7日朝、柳林鎮(山西省呂梁市)で楽しい旅は一変します。地元の人々が黒山のように宿泊所に押しかけ、「日本人に宿を貸すな」「日英と経済断交せよ」「日本人と言葉を交わすな」「日本人が中国の奥地を探っている」と書かれた紙を壁や柱に貼り、さらに、学生300人が宿に押しかけ、リーダーの学生が屋根に上って熱弁を振るい人々を扇動するという事態に至りました。宿の主人からは朝飯の粟粥も食べさせない、すぐに出て行くようにと言われました。この動きは、5月30日に上海の共同租界で発生した警察のデモ隊への発砲事件(5・30事件)を契機におこった反帝国主義、排日運動が、遠く山西省にまで波及したものです。日本人学生たちは、難を避けるように柳林から逃げましたが、その後も離石・清源県でも学生が押し寄せ、宿に泊まることも、馬を借りることもできず、約150kmあまり歩いて太原までたどり着きました。太原の滞在も1日のみで、列車に乗り込み、鄭州を経て上海までどうにか無事に帰り着たということです。
百年前、日本の若者たちが書いた黄土高原の日記が、今、歴史資料として読まれています。そうかんがえると、高見さんの「黄土高原だより」やツアー参加者の日記、そしてGENの30年間の活動そのものが、百年後、日中の交流史、中国でのNPOの活動史にかかわる貴重な「歴史資料」になっているかもしれません。是非、残してゆきましょう。