ラウパッハ、シュピンドラー 他『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』訳者解題(text by 森口大地)
2024年1月29日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第38回配本として、ラウパッハ、シュピンドラー 他『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』を刊行いたしました。1819年、イギリスの小説家ジョン・ポリドリが短編小説として『ヴァンパイア』を発表。この作品が話題となります。そのブームのさなか、1820~30年代にかけてドイツでもヴァンパイア文学が発表されました。本書は、ラウパッハ『死者を起こすなかれ』、シュピンドラー『ヴァンパイアの花嫁』他五作を集めた、怪縁織りなすドイツ・ヴァンパイア文学の傑作短編集となります。編者・訳者は自他ともに認めるヴァンパイア学者(ヴァンピロロジスト)の森口大地さん。本邦初訳となるドイツ・ヴァンパイア文学作品のほか、森口さんの手による「ヴァンパイア関係事項年譜」、訳者解題「ヴァンパイア文学のネットワーク」が収録されたとびっきりのヴァンパイア文学作品集になっています。
以下に公開するのは、ヴァンピロロジスト・森口大地さんによる訳者解題「ヴァンパイア文学のネットワーク」の一節です。
ポリドリの『ヴァンパイア』
こうして見ていくと、ポリドリの『ヴァンパイア』以前には、未発見のものもあるかもしれないが、ヴァンパイア文学と呼べる作品は数えるほどしかないのだ。一方で、ポリドリ後には、ヴァンパイアを主題にした作品は、本書の収録作品も含めて大量に出現する。それほど、ポリドリの『ヴァンパイア』が与えた影響は大きかったわけだ。出版社が、バイロンを作者と偽ったことも一役買ったのだろう。バイロンは当時から注目の的で、バイセクシャル、近親相姦、離婚など噂の種がつきなかった彼は、現代人がテレビで芸能人のスキャンダルを追うのと同じ興味を持たれていたと言える。ポリドリが書いたルスヴン卿に、バイロンが強く投影されていることも大きく働いたはずだ。
ポリドリとバイロンが顔を合わせたのは、1816年のことだ。この出会いからヴァンパイア出版までの過程はD・L・マクドナルドのPoor Polidoriに詳しい[★25]。当時、バイロンは肉体的にも精神的にも不調で(マクドナルドは誇張だとみなしている(p.53))、イギリスを離れ大陸を旅することにしたが、彼の治療にあたっていたサー・ウィリアム・ナイトンから侍医として推薦されたのがポリドリだった。同年の4月26日にバイロン一行はベルギーのオーステンデに着き、そこからオランダを回り、ドイツのケルンに足を向け、ライン川をスイスに向かった。ライン川では、ポリドリのバイロンに対する劣等感が窺える逸話がある。いくつかのバージョンが伝わっているが、ポリドリが、あなたにできて自分にできないことは何かと問うと、バイロンは銃の腕や水泳や本の売り上げなどを挙げるというものだ。ポリドリと父ガエターノの関係はうまくいっていなかったが[★26]、バイロンとポリドリの関係は、ある種この親子関係を繰り返したものだった。年長の男性に対する不安や憧れ、反発、承認欲求。これはポリドリの『ヴァンパイア』のオーブリとルスヴン卿の関係に強く投影されていて[★27]、本作を精神分析的に読む価値は大いにあるだろう。ポリドリは作家として成功するという野望を持ち、バイロンを嫉妬と憧れのないまぜになった気持ちで眺めていた。バイロンはそんなポリドリの気持ちを知っており、ポリドリが医者としても秘書としても有能でなかったこともあって、彼をからかっていた。とはいえ、ポリドリをただの被害者と見てはならない。ポリドリの問題行動もそれなりに記録に残されているし、バイロンがポリドリを気遣うこともあった。
5月25日に、バイロンらはジュネーヴのセシュロンにあるホテルに着いた。ここにはパーシー・ビッシュ・シェリーとメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン(後のメアリー・シェリー)、バイロンの愛人ジェーン・〝クレア〟・クレアモント——メアリーの父ウィリアムの再婚相手の娘——も滞在していた。夏にはバイロンがレマン湖左岸のコロニーにあるディオダティ荘を借り、このメンバーが集まって、そこで『フランケンシュタイン、現代のプロメテウス Frankenstein; or the Modern Prometheus』(1818)と『ヴァンパイア』が誕生することになる。六月十五日のことだ。この年は雨の多い夏で、暇を持て余した彼らは『ファンタスマゴリアーナ Fantasmagoriana』(1812)という怪談集を読んでおり、それに刺激を受けたバイロンは怪奇物語の競作を提案した(この顛末を膨らませたケン・ラッセルの『ゴシック Gothic』(1986)という面白い映画がある)。執筆に着手したのはポリドリが最後で、18日に書き始めた。メアリーが『フランケンシュタイン』の1831年版に寄せた序文によると、ポリドリは鍵穴から覗きをした罰で頭が骸骨になってしまう女性の話を思いついていたようだ。その関係か、『アーネストゥス・バーチトルド、現代のエディプス Ernestus Berchtold; or the Modern Œdipus』(1819)というポリドリのそれほど有名ではない小説には、覗き見する女性が登場する。この競作でバイロンが書いた断片[★28]が、ポリドリの『ヴァンパイア』のもととなっている。この断片は今では簡単に邦訳で読むことができるが、ここでも年若の青年である「私」と年上の友人「オーガスタス・ダーヴェル」という構図、ポリドリ/オーブリとバイロン/ルスヴン卿を思わせる構図が見られる(ただし、ダーヴェルがヴァンパイアであることを示す描写はない)。
ポリドリは『ヴァンパイア』を出版する予定はなかったので、「ニュー・マンスリー・マガジン The New Monthly Magazine」(1819、4月1日)に本作が掲載されたのは寝耳に水だった。出版経緯のごたごたはマクドナルドとヘンリー・R・ヴィーツに詳しい。原稿がどのようにして、本誌を手がけた出版業者ヘンリー・コルバーンの手に渡ったかは定かではないが、レマン湖滞在当時にポリドリが仲良くしていた婦人を介したのではないかとされている。ポリドリが『アーネストゥス・バーチトルド』の序文の註で説明するところでは、彼がある婦人にバイロンの断片の内容を伝えたところ、それをもっともらしい物語にするのは無理だと言われたらしい。ポリドリ曰く、「3日間にわたって朝に作業し、私はその物語を作りあげ、彼女のもとに置いてきた」そうだ[★29]。この婦人は、彼が1816年の夏の間によく訪れていたブルース伯爵夫人ではないかとされる[★30]。ヴィーツが言うには、彼女はレマン湖の右岸のジャントに別荘を構えていたが、『ヴァンパイア』の原稿は1816年9月から18年の秋にロンドンに着くまで、ここにあったという。これをコルバーンに渡したのは、ジョン・ミットフォードという人物の可能性があるとされる[★31]。ミットフォードは、『ヴァンパイア』の前書きに載せられている「ジュネーヴからの手紙の抜粋、バイロン卿にまつわる逸話等々 Extract of a Letter from Geneva, with Anecdotes of Lord Byron, &c.」の著者でもあるとされている[★32]。「抜粋」の内容は、著者がディオダティ荘に赴き、近辺で使用人などに聞きこみ調査をした結果などを伝えるもので[★33]、ポリドリへの言及はあるものの、彼の名前は「抜粋」では徹底的に伏せられているため、『ヴァンパイア』の作者がバイロン卿であるという勘違いを助長させるには充分だ。
『ヴァンパイア』がバイロンの名前で売られたことは、コルバーンの経営戦略の可能性が高い。これに対して、編集のジョン・ワトキンスは後に匿名でコルバーンの行為を利益を目的とした悪行だと非難し、副編集であったアラリック・ワッツは、ポリドリの名前に言及こそしないものの、バイロンが作者ではないことを示す前書きを用意し、バイロンの著作の出版を手がけていたジョン・マレーに事情をうちあけた他、抗議の意図をこめて職を辞してさえいる[★34]。コルバーンは『ヴァンパイア』の販売[★35]が妨げられることを恐れ、ワッツの前書きを削除した。後にポリドリやバイロンが抗議の手紙を送ったが、時すでに遅く、『ヴァンパイア』はバイロンの名前で広まることとなった[★36]。
ポリドリのもたらした変革
しかし、皮肉なことに『ヴァンパイア』とバイロンの結びつきは、ヴァンパイアにパラダイム転換を起こした。セルビア事件によって有名になったvampirは、ポリドリの小説でバイロンをモデルとしたルスヴン卿と重なることで、それまでとは異なる存在になった。マクドナルド/シャーフがまとめるように、以下の四つの点において、ポリドリのルスヴン卿は革命的存在であると言える[★37]。
ヴァンパイアを現実味のある一個の人間に仕上げたこと。
ヴァンパイアに貴族という身分を与えたこと。
ヴァンパイアを放浪者としたこと。
ヴァンパイアを誘惑者としたこと。
民間伝承上のvampirは、蘇る死者であり、基本的に人格を持つ存在ではない[★38]。ただの蘇った死体として、その行動が語られるにすぎない。確かに、それまでのヴァンパイア文学では、ゲーテの『コリントの花嫁』やスタッグの『ヴァンパイア』などで人格を持った存在としてのヴァンパイアが多少は描かれてはいるが、バイロンという具体的な人物が投影されたルスヴン卿は、〈バイロン的ヒーロー[★39]〉というバイロンが描いた主人公によく見られる特性をも備えることで、人格をより強烈に打ちだしている。ポリドリの『ヴァンパイア』が掲載された「ニュー・マンスリー・マガジン」は、編集者による前書きでセルビア事件を引用してヴァンパイアを読者に説明するが、この前書きもまた、〈バイロン的ヒーロー〉としてのルスヴン卿と、それまでのvampirとの対比を強めていると言えるだろう。この対比は、20世紀になって、アン・ライスの小説で、自らのルーツを探りに東欧を旅するルイが、当地で野生動物のような、人格のないただの生ける屍としてのヴァンパイアと出くわす場面にも象徴的だ[★40]。
市民階級の台頭やフランス革命によって、当時、徐々に衰退の兆しを見せ始めていた貴族という身分は、ヴァンパイアと同じ生きながらにして死んでいる状態にあった。その意味では、ヴァンパイアの貴族性はある種の時代錯誤(アナクロニズム)だ。テオフィル・ゴティエの『恋する死女 La Morte amoureuse』(1836)のクラリモンド——貴族ではないがクルティザンヌとしてコンチーニ宮に住まう——、シェリダン・レ・ファニュの『カーミラ Carmilla』(1871‐72)のカーミラ(カルンシュタイン伯爵夫人)も、ストーカーのドラキュラ伯爵も、時代が下れば下るほど、読者からすれば過去の遺物のような存在に見えるだろう。逆に言えば、貴族的ヴァンパイアのはしりであるルスヴン卿は、フランス革命に比較的近い時期の存在だ。ルスヴン卿を舞台にあげたシャルル・ノディエがメロドラマというジャンルを選択したことは示唆に富む。メロドラマは、ノディエからすれば民衆教育の役割を果たすのであって[★41]、だからこそ悪人の典型としての貴族が生きてくる。宮廷貴族や政治家、聖職者などの上流階級による搾取をヴァンパイアになぞらえる伝統は、ヴォルテールの痛烈な当てこすりだけでなく、1732年5月の「ロンドン・マガジン The London Magazine」や「クラフツマン The Craftsman」にまで遡れる[★42]。ルスヴンの賭博癖——しかも彼は自分の儲(もう)けに関心はなく、善人から巻き上げ、悪人に負けて金を流す——もこの伝統に連なるもので、彼は放蕩(ほうとう)というステレオタイプな悪い貴族像を提供している。同じ貴族でも、ドラキュラ伯爵は、フランコ・モレッティが指摘するように、無駄を許さない資本家であり、召使がやる仕事を自分自身でする[★43]。
しかし、最も注意すべきは、ルスヴンの実際の素性が曖昧模糊(もこ)としていて、誰にもわからないという点だろう。冒頭のnoblemanという記述すら信頼できるものか怪しい。なぜなら、この物語はすべてオーブリの妄想という可能性を秘めているからだ(三人称の語りではあるが、彼は結末で、「読者がこれまで読んできた内容を冷静に語っ」てから死ぬ)。そもそも、蘇ったルスヴン卿は「マースデン伯」を名乗っている。「ルスヴン卿」という氏素性は信頼に足るものだろうか。これらは、「解きがたい矛盾(irreconciliable contradictions)」に満ちたダーヴェルの素性——「オーガスタス・ダーヴェル」という名前は仮名でしかない——と、「私」による主観的な語りと呼応する。死者が現実社会に籍を置かないのと同じように、ヴァンパイアについては、確かなものなど何もないのだ(「カーミラ」という名前がアナグラムであることが思い出される)。放浪というヴァンパイアの性質も、確固たるアイデンティティの欠如と結びつく。民間伝承でも、蘇る死者は死後に家に戻ってくるという、ある種の旅をしているのだ。
放浪者としてのヴァンパイアは、マクドナルド/シャーフが言うように、放浪詩人としてのバイロンや、彼の『チャイルド・ハロルドの巡礼 Childe Harold’s Pilgrimage』(1812‐18)、『異教徒(ジャウア)』における罵倒(「ヴァンパイアと化して、地上に出でて〔…〕生地を跳梁跋扈(ばっこ)するがいい」)、またバイロンの断片におけるダーヴェルと「私」の旅によって形づくられている。これに付け加えるならば、さまよえるユダヤ人のような、M・G・ルイスの『破戒僧 The Monk』(1796)やC・R・マチューリンの『放浪者メルモス Melmoth the Wanderer』(1820)などのゴシック小説で好まれたモティーフも無関係ではないだろう[★44]。また、ここには英国貴族の子弟が教育の一環として体験するグランド・ツアー[★45]の名残も見いだせるかもしれない。ヴァンパイアの貴族性は、グランド・ツアーを介して放浪者としてのヴァンパイアと繋がっているのだ。さらに言えば、ストーカーの『ドラキュラ』冒頭も旅行記として読むことができる[★46]。もっとも、ここで旅するのはジョナサン・ハーカーであって、ドラキュラ伯爵のロンドンへの旅は、むしろ貨物としての輸送でグランド・ツアーとはほど遠い。いずれにせよ、異国趣味(エギゾティシズム)はセルビア事件の報告書の頃から、ヴァンパイアと切り離せない関係にある。神聖ローマ帝国の役人は、自国の領土周縁で起きた事件を奇異の目で見ていた。しかし、この奇異の目は、同時に魅了された者の目でもあり、ルスヴン卿を見る周囲の人間の目と同じなのだ。我々は、どこか奇妙で普通ではないものに惹かれる。それはポジティヴな心理に思えるが、同時に偏見というネガティヴな心理と表裏一体でもある。この好奇心が、ヴァンパイアにはつねに働いているのだ。エドワード・サイードの〈オリエンタリズム〉は、この点と強く関わってくる[★47]。
誘惑者としてのヴァンパイアは、クリスタベルやレイミアなどをヴァンパイアと結びつけることになったきっかけでもある。この一面は、『ドラキュラ』のルーシー・ウェステンラが体現するような、19世紀末から20世紀にかけて見られた〈新しい女(New Woman)〉にまで受け継がれているし、〈ダンディズム〉とも通ずるところがあるだろう。1820~30年代に制作されたポリドリの『ヴァンパイア』の舞台翻案では、原作以上にルスヴン卿のプレイボーイな面が強調されるが、ここにはロレンツォ・ダ・ポンテ台本/ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲の『ドン・ジョヴァンニ Don Giovanni』(1787)の影響もあるかもしれない。民間伝承やセルビア事件の頃からすでに、就寝中の人々を襲ったり死後に妻と性交渉を持ったりと、性的要素を孕(はら)んではいるものの、誘惑者という性質をヴァンパイアが手にしたのは文学に入ってからのことだ。オッセンフェルダーの詩『ヴァンパイア』では、酔った男が娘を誘惑する際に、己をヴァンパイアになぞらえている。
以上の四つの性質は、ポリドリの『ヴァンパイア』を受けて制作された、フランスとドイツの多数の舞台翻案にも確認できる[★48]。フランス幻想文学の父とされるシャルル・ノディエは、友人シュプリアン・ベラールの小説『ルートヴェン卿、ヴァンパイアたち Lord Ruthwen, ou les Vampires』(1820、ただし、ほぼノディエが書いたという説もある)を後援したあと、自分でも共同台本でメロドラマ『ヴァンパイア Le Vampire』(1820)を執筆。本作はポルト・サン゠マルタン劇場で上演され、好評を博した。これが大量の後追い作を生み、ハインリヒ・ルートヴィヒ・リッターによるノディエの独訳(1822)を受けて、ドイツ語圏も流行に続いた。オペラに詳しければ、ハインリヒ・マルシュナーの名前を耳にしたことがあるかもしれないが、彼が作曲を手がけた『ヴァンパイア Der Vampyr』(1828)はノディエの戯曲がなければ存在しなかっただろう(マルシュナーの『ヴァンパイア』は、2022年にもハノーヴァーで上演され、期間限定で無料配信もされていた)。それどころか、本書に収録された多くの作品は、ノディエの『ヴァンパイア』、ひいてはポリドリの『ヴァンパイア』がなければ存在しなかったはずだ。
もちろん、ポリドリが後世に与えた影響を慎重に見積もっていく必要があることは言うまでもない。例えば、ユーライア・デリック・ダーシーの『黒人ヴァンパイア The Black Vampyre』(1819)は、その序文や註を見ると、ポリドリの作品を意識していることが明らかだし、ジェイムズ・マルコム・ライマー(/トマス・ペケット・プレスト)の『ヴァンパイアのヴァーニー Varney the Vampyre』(1845‐47[★49])では、ポリドリ伯爵という人物が登場し、ポリドリの『ヴァンパイア』の舞台翻案のように、自分の命を救ったヴァーニー——このあたりの章では、彼の名前は基本的に伏せられて、主にthe stranger(ヴァンパイアのよそ者的・放浪者的性質が思い出される)と表記されている——を娘と結婚させようとする[★50]。しかし、後世の他の作品との関係は要検討だ。ポリドリの『ヴァンパイア』が、革新的なヴァンパイア像の先駆であるとは言えるが、これは果たして、そのまま『ドラキュラ』まで何の差し障りもなく受け継がれてきたのだろうか。このあたりは、今後の研究で詳らかにしていく必要がある。ヴァンパイアについてまだまだ語るべきことは多いが、きりがないのでこのあたりで止めておこう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、ラウパッハ、シュピンドラー 他『ドイツ・ヴァンパイア怪縁奇談集』をご覧ください。