アリス・リヴァ『みつばちの平和 他一篇』訳者解題(text by 正田靖子)
『みつばちの平和』と五つの魅力
「夫のことを私はもう愛していないと思う」という衝撃的な言葉で始まるこの小説は、三部からなる小説だが、フランスでも出版され、リヴァの代表作となった。スペイン内戦を時代背景として、タイピストのパートをする40近い主婦の日記という体裁を取る。自分の主義主張がありながらも、なかなかに強引な夫のペースにあっけなく巻き込まれてしまう気の弱い妻、ジャンヌ。この主人公の視点から、いまだ選挙権をもたず、本を書くにもペンネームを用いざるを得なかった時代に生きた女性たちの恋愛と結婚が、友人のプチ家出や同僚の自殺などの事件を通して描かれる。
1 説明的描写の排除と「正確に響く調子」
アリス・リヴァの文体の特徴のひとつに、説明的描写の排除ということがあげられる。第一部では、当時、働く女性の最先端の仕事であったタイピストのきびきびした仕事ぶり、個性豊かな同僚たちの魅力的なポートレート、スイスの長い厳しい冬が終わり、春が訪れたときの華やいだオフィスの雰囲気が、活写されていく。続いて、無神論者だと公言しながらも、牧師と結婚した古くからの友人との形而上に終始する重く息苦しい会話を挟んで、名うてのプレーボーイによるベルモット酒を前にしての調子はずれの口説きの場面が、からかうようなユーモアを交えて再現される。
そして第二部では、仕事で長期留守にしていた夫の帰宅で、ジャンヌの平穏な日々が壊されたことが、日記の中断で示される。引用はジャンヌが日記を書いているのを知った夫の叫びである。登場人物のたったひと言のせりふで、どれだけ多くを語らせることができるかという好例である。
夫のこの第一声は、一音一音区切って、話し言葉をそのまま書き写した表記法が使われている。夫の驚き、軽蔑、苛立ちがはっきり現われ、効果的である。問い詰められ口ごもるジャンヌと絶叫する夫の間には、もはやコミュニケーションが成立不可能であること、さらに、ふたりの間には、明白な力関係が存在し、ジャンヌは無神経で高慢な夫に押し潰されそうになっていることが示される。
ところで、話し言葉をそのまま表記するこの手法は、続く世代のアメリ・プリュム(Amélie Plume 1943‐)がさらに発展させ、充実させて、ユーモアあふれる、歯切れのいい、リズム感のある多くの作品を発表している。
さて第三部では、ジャンヌが、過去の恋愛に戻ることも、芽生え始めたと思っていた愛(恋愛、あるいは友愛かもしれないもの)を実らせることも不可能だと自覚した矢先に、同僚のシルヴィアが、恋人の裏切りに絶望して自殺する。作品の冒頭は、軽妙なタッチで、単純明瞭に、畳みかけるような確信にみちた調子で書かれていたが、作品の結びでは、それとは打って変わって、対照的に、うねるようなリズムになっている。同じ言葉の繰り返しが、波のようなリズムを作り、その反復するリズムが、定まらず捉えどころのないジャンヌの気持ちの不安定さを強く感じさせる。ひとつの小説で、文体のヴァリエーションの妙を大いに楽しませてくれる。リヴァはとりわけ、書く内容と文体とを完全に一致させるということを重視した。これは、若手の作家にアドヴァイスを求められた場合にも、また他の作家の作品について述べる場合にも、リヴァの口から、たびたび繰り返された指摘である。そしてこれはリヴァに限らず、スイス・ロマンドの作家が共通して枢要としていたところでもある。これを彼らは、「正確に響く調子 le ton qui sonne juste」と呼ぶ。
2 ユーモア
批評におけるジュネーヴ学派の泰斗、マルセル・レイモン (Marcel Raymond 1897‐1981) はラージュ・ドム版 L’Age d’Hommeの序文で、ジャンヌの急所を突く、鋭い、簡潔な表現を、風を切って飛んでくる「矢」に例え、この小説の風刺画的な面白みを、読者に印象付けている。
リヴァがとりわけ糾弾するのは、男たちを陶酔させる英雄願望とその影に隠れた暴力である。暴君と殉教者という意表をつくアイディアの組み合わせの妙がリヴァのユーモアの特徴でもある。殉教者から聖性を剥奪し、単純化して、暴君と殉教者を同列に扱う。極端な表現をすることにより、対象の特徴を際立たせ、こっけいさを加える。
一方、女性はと言えば、見せしめのために広場で行なわれる拷問や処刑を目撃して、嘆き悲しみはするものの、そのあとすぐ気を取り直して、せっせと広場を掃除する。この女性の姿も女性の現実的性向を鋭く捉えていて、ユーモラスである。こうしたカリカチュアのやり方は、パンフレットの性格をかなり意識的に活用していると言えよう。
3 フェミニズム
アリス・リヴァのフェミニズムはフランスやアメリカのフェミニズムとは一線を画し、女性の特性を最大限に生かし、従来男性が関心を示してこなかった分野で、ことを成し遂げようとするものである。創作に際しても男性の作家とは異なる独自の文体を追求する。「家事はデスク・ワークよりも活気があって、変化に富んでいる」という文で始まる光が差し込む台所での皿洗いの楽しさを語った箇所は、ラミュから「台所に立つ女性をこれほど鮮やかに描けた作家を私は他に知らない」と絶賛された。
アリス・リヴァの時代に先んじたフェミニズムは、家父長制の象徴としてのキリスト教をも転換する。ジャンヌは、全人類とともに苦しみに耐えるイエスよりも、庇護し慰めを与える聖母マリアにより強く惹かれる。しかし彼女はプロテスタントの信仰と聖母への憧れを両立させることができず、聖母への憧れと決別すべきではないかと思い悩む。この作品の背景となったスペイン内戦から第二次世界大戦にかけての未曾有の試練は、多くの人々の魂を暴力によって傷つけた。ジャンヌをとおしてアリス・リヴァは聖母への憧憬を垣間見せるのである。
同時代のスイス・ロマンド文学のこの他の作品にも、聖母に救済を願う祈りが認められる。しかし、アリス・リヴァの作品とは異なり、聖母に直接言及することはない。たとえば、エドモン゠アンリ・クリジネル(Edmond-Henri Crisinel 1897‐1948) は3つの特性、すなわち霊性を備えた天使という特性、ギリシア神話の復讐の女神という女性の肉体をもつ特性、傍らで本復までを見守り続ける聖母の特性、を持つアレクトンヌという人物を新たに作り出した。ジャック・メルカントン (Jacques Mercanton 1910‐96) はその生成過程が同時代に遡る『眠れる七聖人の夏 L’Eté des Sept-Dormants』(1974)の中で、主人公マリアに、作者が支配欲と近い距離にあるとした母性愛とは異なる、傍らにいて苦しみをともに耐えるピエタの聖母の愛を具現化させた。プロテスタント社会における聖母という宗教上の問題とそれとの葛藤に異なる三筋の希望を彼らは得るのである。その共通点は十字架の傍らにたたずむ聖母の形象にあった。
4 ジャンヌの眼差しとクララの眼差し
ジャンヌを取り巻く個性豊かな人物たちの中で、特に彼女の心を引き付けるのは、同僚のクララの眼差しである。
クララの父は、かつて「バターの料理はうんざりだ……」と言い、妻と小さな娘を残して家を出て行った。家長の責任に耐えられなかった父のことが、今ならば理解できるとクララは言う。彼女の眼差しこそ、まさに著者、アリス・リヴァがすべての登場人物たちに向ける眼差しである。
他方、ジャンヌの目は、本人も自認しているように、「まったく客観性を欠く目で」、対象を「気分や失望のままに」、「美化したり、飾ったり、あるいは汚したり」する。そんな刺すような視線の餌食になった夫を、ジャンヌは「スケープゴート」になぞらえ、「そうである以上スケープゴートと我々がスケープゴートに負わせるものとをどうやって分けたらいいのだろう。スケープゴートは自分の積み荷、つまり我々が彼の背に載せるその積み荷と見分けがつかない。私の夫もまたしかり」と言い放つ。
ところで、ジャンヌは主語にこの「我々」 «nous» をたびたび使う。そこには、自分のためだけではなく、「姉妹の名」において、女性全体のことを語っているのだというジャンヌの自負のようなものが伺える。しかし、いざ他の女性の前で所信を開陳すると、賛同を得られるどころか、一笑に付されてしまう。一度目は、男と女の間の「深淵」の話を、産院に見舞った若い女性にしたときのことである。「深淵ですって! なんて大げさな言葉。ボルナンさん、あなたはずいぶんナイーブだと思いますよ、それに恩知らずでさえありますよ……」と笑われる。二度目はオフィスで、同僚たちに、「戦争の勃発と継続のほぼ全面的な責任は男にあると思う」と言ったときのことである。しかしこれもまた即座に「女は男よりもひどい」と反論され、みんなに笑われてしまう。ジャンヌの無念は察するに余りあるが、勇み足の感は否めないのかもしれない。ボーヴォワールの『第二の性 Le Deuxième Sexe』が出るのはこの作品が発表された二年後のことである。世の中の動きを正確に読み取る著者の冷静な目が、ジャンヌの、時代に先んじたフェミニズムを周囲から浮いて見せざるを得なかったのであろう。
5 みつばちの平和
ジャンヌの無念に、カッサンドラの姿が重なる。このギリシア神話の女性はトロイの破滅を早くから予知しながらも、予言を誰からも信じてもらえず、結局それを食い止めることができなかった。戦争が近づいていることを感じていても、それを阻止する手立ての見つからない焦慮がジャンヌを「みつばちの平和」、つまり「紛争の種をまく」雄バチを巣から追い出して平和を守るという極論に走らせたわけだが、この彼女の焦燥感や怒りや強い不安に共感を覚える読者も少なからずいるのではないだろうか。とりわけ、第一次世界大戦中、それぞれが言語と文化を共有する隣国に一体感を持ったために、ドイツ語圏とフランス語圏の間に「レシュティの障」に例えられる溝が生じ、中立が脅かされ、国が空中分解する危機を経験したことのあるスイスに在ってはなおさらである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、『みつばちの平和 他一篇』をご覧ください。