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ブラニスラヴ・ヌシッチ『不審人物 故人 自叙伝』訳者解題(text by 奥彩子)
2024年8月26日、幻戯書房は海外古典文学の翻訳シリーズ「ルリユール叢書」の第42回配本として、ブラニスラヴ・ヌシッチ『不審人物 故人 自叙伝』を刊行いたしました。ブラニスラヴ・ヌシッチ(Бранислав Нушић 1864–1938)セルビア(旧ユーゴスラヴィア)の作家。ベオグラードの商家に生まれたヌシッチは、スメデレヴォの小学校、中学校、ベオグラードのギムナジウムを経て、ベオグラード大学校の法学部を卒業。その間、1885年にセルビア゠ブルガリア戦争に義勇兵として参戦しましたが、卒業後まもない87年、反王朝的な風刺詩を著して投獄されます。そののちは外交官となり、オスマン帝国支配下のビトラ、プリシュティナ、テッサロニキの領事館に勤めました。その後教育省に移り、1900年ベオグラード国立劇場の支配人に転出。以後、劇場との結びつきは生涯続き、ノヴィ・サド、スコピエ、サライェヴォ各劇場の支配人に就任。1933年にはセルビア王立アカデミー会員に選出されています。ヌシッチは、短編や長編小説、紀行文、回想記、児童文学に戯曲と様々なジャンルの文芸を物した多産な作家ですが、とりわけ劇作家として優れた作品を多く残しています。
本書『不審人物 故人 自叙伝』は、激動の時代のバルカンで、諷刺と喜劇で鋭い批判精神をふるったヌシッチによる、官僚制度を揶揄するゴーゴリものの喜劇『不審人物』と、姓とアイデンティティの関係を問う晩年作の喜劇『故人』の本邦初訳二篇、作家ヌシッチの人生喜劇を綴った「自叙伝」を収録しています。
以下に公開するのは、ブラニスラヴ・ヌシッチ『不審人物 故人 自叙伝』の翻訳者・奥彩子さんによる「訳者解題」の一節です。
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ブラニスラヴ・ヌシッチの歩みをたどることは19世紀から20世紀前半のバルカン史をたどることと慨嘆したくなるくらい、その人生は波乱に満ちている。選集25巻をもってしても発表された作品をすべて収めることはできず、戦争で失われた原稿、避難中に置き去りにした原稿、書きかけのままとなった原稿も少なくない。ヌシッチにとって執筆のアイディアは尽きることがなかった。それもそのはず、ヌシッチは日常を観察し、言語化することに天性の才があった。燃えさかる情熱と尋常ではない行動力を持ち、生あるかぎり書き続ける人。自伝、いくつもの伝記のほかに、2巻本の逸話集があり、ヌシッチ自身を主題としたテレビドラマが制作されるほど、エピソードには事欠かない。したがって、その全貌を明らかにすることは私の力の及ぶところではなく、これから記すのはその一端である。
不明な出自
ヌシッチにあっては当然のことながら自らの人生も執筆の素材となる。
わたしは真夜中に生まれました。ですから伝記には「一八六四年十月八日に日の光を見た」とは書けません。「一八六四年十月八日に蝋燭の光を見た」となります。[★01]
こんな調子で、生年や出生地に諸説あったことやら、自分が生まれたときに助産師が女の子と間違えた話やら、ベオグラードの旧市街にある聖ミハイロ大聖堂の近隣に位置する生家がのちに取り壊されて国立銀行が建てられた話やらが、面白おかしく語られる。そうした話はさておいて、ここでは、本書に収録された短編「自叙伝」に「今日にいたるも、わたしは自分の本当の姓が何というのか知らないのである」と書かれている点について、もう少し詳しくみておこう。
ヌシッチの出生時の名は、アルキビヤデス・ヌシャという。父はゲオルギヤス・ヌシャ(1822‐1916)、母リュビツァ(旧姓カスナル、1839‐1904)はブルチコ(現在のボスニア)の出身で、アルキビヤデスは第四子であった。「自叙伝」に記されているように、ヌシャというのは、父ゲオルギヤスの本当の姓ではない。ゲオルギヤスが世話になっていたベオグラードの商店の主人ゲラシム・ヌシャからもらったものである。じつは、ゲオルギヤスには父がいなかった。母ゴチャはアルーマニア人で、ビトラ近郊(現在の北マケドニア、当時はオスマン帝国)の村に生まれた。一説によれば、ゴチャは若いころにアルバニア人かアルーマニア人に浚われ、当局に救出されて帰宅したときには妊娠していた。両親は地元に置いておくことができず、ゴチャはテッサロニキで子供を産んだあと、息子と一緒にゲラシムに身元を引き受けてもらったという。未発表の原稿には次のように記されている。
わたしには姓がない。あの姓は父が奉公していたベオグラードの店の主人のもので、自分の姓がわからない父が流用したものだ。
わたし自身の姓は、だれにもわからない。
それは些細なことだ。わたしは自分がだれかもわからない。まちがいなく、バルカン人ではある。アルバニア人、アルーマニア人、セルビア人の血が流れている。母はセルビア人だ。だから、もっとも多くの割合を占めているのは、セルビア人だ。
マケドニアのプレスパ湖周辺を旅をした。父方がその地域の出身だからだ。でも、何の手がかりもえられなかった。[★02]
本当の姓が分からず、借り物の姓を名乗ることは、「些細なこと」と記していたとしても、じっさいには、簡単に笑い飛ばせることではなかっただろう。姓とアイデンティティの関係を問う戯曲『故人』には、作家自身の出自をめぐる葛藤があったものと思われる。
文芸との出会い
アルキビヤデスがまだ幼いころ、商売をしていた父ゲオルギヤスが破産をしたために、一家はスメデレヴォに転居した。父の破産について、ヌシッチはいたずらっぽく次のように書いている。
父はベオグラードの裕福な商人でしたが、ちょうどわたしが生まれたころに、破産をし、わたしを含めた全財産をまとめて、スメデレヴォに引っ越しました。その一件について、ずっと父を許せませんでした。金持ちの息子になると思わせてこの世に出てこさせて、実際に出てきて後戻りできなくなってから、貧乏人の一人にすぎないという事実を突きつけるなんて! ほかにもたくさん子どもがいたのに、わざわざわたしを選んでそんなひどい冗談をしたことも、本当に許せません。[★03]
父はスメデレヴォで穀物を商いし、一八七一年にはスメデレヴォ初の銀行の設立メンバーとなった。
学校での勉学は控えめに言って大嫌いだったらしい。学校についてのエピソードは「自叙伝」ではおもしろおかしく記されているが、両親の心配は大きかったものと思われる。父が教師たちに心付けをしたおかげで、1874年に無事に小学校を卒業するものの、中学では3科目で試験に落第し、1年生を留年することになった。父は息子をパンチェボの有名な商会に送りこみ徒弟修業をさせようとしたが、息子は厳しさに耐えられず、たった3日で逃げ帰ってきてしまう。しかたなく1年生をやり直すこととし、今度は家庭教師がつけられた。家庭教師として雇われたジュラ・コニョヴィチはオーストリア゠ハンガリー帝国統治下のヴォイヴォディナからスメデレヴォに避難してきた若者で、美術を教えていたが、弁舌に長け、文学にも親しんでいた。このころのセルビアはオスマン帝国内で自治権を有する「セルビア公国」として、ミラン公が親政を行なっていた。1875年にヘルツェゴヴィナでオスマン帝国に対する大規模な農民反乱が起こると、やがてボスニアにも広がって、セルビア各地でも反乱を支持する集会が開かれるようになる。コニョヴィチはこうした集会で、ヨヴァン・ヨヴァノヴィチ・ズマイやジュラ・ヤクシッチの詩を読み解いてみせたという。若きアルキビヤデスはコニョヴィチの影響を受け、愛国精神と文学への関心を深めた。
ちょうどそのころ、ミハイロ・ディミッチが座長を務める旅回りの一座「コソヴォ」がスメデレヴォにやって来た。父が劇団に助力をしていたため、アルキビヤデスは全演目を無料で見ることができた。演目の多くはヘルツェゴヴィナの蜂起を想起させる歴史劇で、愛国心を刺激するものだった。影響されたアルキビヤデスは、一座がスメデレヴォを去ったあと、借金の返済の代わりとして残された舞台道具を用い、学友たちと芝居を上演する。コソヴォ一座が演じた「リュビッチの戦い」(1815年の第二次セルビア蜂起でセルビア軍が大敗を喫した戦い)の演目のほかに、自作の喜劇『赤ひげ』も上演された。愛国心が高まった12歳の少年は、ついに、両親に別れの手紙を書き、青年義勇団と一緒にボスニア・ヘルツェゴヴィナへ向かおうとする。しかし、すぐに当局に捕まり、父から厳しく罰せられる結果となった。その年、セルビアとモンテネグロはオスマン帝国に宣戦を布告するものの大敗して休戦せざるをえなくなる。しかし、露土戦争(77年‐78年)を経て、ベルリン条約で独立を獲得した。他方、ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリア゠ハンガリー帝国の統治下に置かれることとなった。
77年、アルキビヤデスはスメデレヴォを離れ、ベオグラードのギムナジウムの3年生に編入学する。本格的に文筆に携わりはじめたのは、このギムナジウム時代である。1880年には、ソンボルの若者向け雑誌『鳩』の第7号に最初の詩「太陽の光」を発表、81年には同じく『鳩』(第3号‐第5号)に最初の散文作品「僕の天使」を発表している。生徒の文芸クラブ「希望」のメンバーともなった。1882年2月には、創刊されたばかりの絵入り雑誌『セルビアの若者』の編集委員の一人となり、第6号に短編「僕の葡萄園」を発表した。こうして、ギムナジウム時代を文学とともに過ごした。
従軍、投獄、劇作家の誕生
ギムナジウムを卒業した夏、アルキビヤデスは旅回りの一座に参加して過ごした。秋にはセルビア人の名前である「ブラニスラヴ」を追加し、以後、その名を用いるようになった。父の希望を汲んで、ベオグラードの大学校(現在の大学)の法学部に入学するものの、在学中も文学活動や青年運動に積極的に参加している。19歳のときに、詩人ヨヴァン・イリッチの文芸サロンで喜劇『国会議員』の第一稿を朗読し、激賞された。この原稿は国立劇場に持ちこまれ、文学芸術委員のミロヴァン・グリシッチとラザ・ラザレヴィチによる査読を受けることになる。査読者の二人からは高評価を受けたものの、社会と政治を諷刺する作品は、体制派の劇場支配人ミロラド・シャプチャニンの判断により上演には至らなかった。
1882年にセルビア公ミランは王政を宣言し、「セルビア王国」を樹立する。1885年11月、東ルメリアを併合したブルガリアに対し、セルビアが宣戦を布告すると、ヌシッチは伍長として従軍をし、歴史的大敗とされるスリブニツァの戦いを経験することになる。このときの経験をもとに『ある伍長の物語』が執筆された。翌年、ベオグラード大学校を修了している。
1887年4月末、二つの葬儀がヌシッチを激怒させることになる。一つはブルガリアとの戦争において勇猛を馳せたミハイロ・カタニッチ少佐の葬儀である。戦場での負傷によって亡くなった英雄の葬儀は、高級士官が一人も参列しない寂しいものだった。ところが、その前々日に行われたもう一つの葬儀には、ミラン国王をはじめとする高官達が揃って参列していた。それは、国王の寵臣の老母の葬儀だった。5月6日、独立系の『新ベオグラード新聞』に諷刺詩「二人のしもべの葬儀」が偽名で掲載される。詩は次のような句で結ばれていた。
セルビアの子どもたち、わかるよな
この教訓はな
いまのセルビアではな
婆さんに栄誉を、英雄に軽蔑をってことさな
だからな、おまえさんらも無駄に苦しむことはないわな
セルビアの子どもたち、婆さんになりな
この詩は国王の逆鱗に触れ、偽名であったにもかかわらず執筆者が特定されて、ヌシッチは不敬罪で逮捕される。下級審では2カ月の刑が宣告されたが、上訴審でより重い2年の刑となった。翌年の1月、ヌシッチはポジャレヴァツ刑務所に収容される。喜劇『庇護』の序文によれば、収容生活にすっかり退屈し、大臣とコネがあるように振る舞って、紙とペンを支給させることに成功したという。収容期間中に書きとめられたエッセイは『紙片』としてまとめられ、のちに出版された。4月、父の嘆願書により恩赦が認められて釈放される。収容期間の経験を生かした『不審人物』、収容期間中に着想した『庇護』を書き上げるのはこの年のことである。刑務所暮らしはヌシッチが劇作家として歩みだすうえで、重要な経験となった。
[★01]Бранислав Нушић, Аутобиографија, 1963, 19.
[★02]Kosta Dimitrijević, “Prezime “dao” bakalin,” Novosti, 2014.05.10. [https://www.novosti.rs/dodatni_sadrzaj/clanci.119.html:490981-Prezime-dao-bakalin]
[★03]Аутобиографија, 17.
【目次 】
不審人物
序文
第一幕
第二幕
故人
序幕
第一幕
第二幕
第三幕
自叙伝
註
ブラニスラヴ・ヌシッチ[1864–1938]年譜
訳者解題
【訳者略歴】
奥彩子(おく・あやこ)
共立女子大学教授。専門はユーゴスラヴィア文学。著書に、『境界の作家ダニロ・キシュ』(松籟社)、共著に、『東欧の想像力』、『世界の文学、文学の世界』、(以上、松籟社)、『世界文学アンソロジー——いまからはじめる』(三省堂)、翻訳にダニロ・キシュ『砂時計』(松籟社)、ドゥブラヴカ・ウグレシッチ『きつね』(白水社)、共訳に、デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か』(国書刊行会)など。
田中一生(たなか・かずお)
1935年、北海道生まれ、2007年東京歿。早稲田大学露文科を卒業後、ベオグラード大学に留学、ビザンチン美術およびユーゴスラビア文学を研究(1962‐67)。訳書に、ウィンテルハルテル『チトー伝』(徳間書店)、クレキッチ『中世都市ドゥブロヴニク』(彩流社)、アンドリッチ『ゴヤとの対話』『サラエボの女』(恒文社)、『イェレナ、いない女 他十三篇』(共訳、幻戯書房)シュチェパノビッチ『土に還る』(恒文社)、カラジッチ『ユーゴスラビアの民話Ⅰ』(共訳、恒文社)、ペタル二世ペトロビッチ゠ニェゴシュ『山の花環 小宇宙の光』(共訳、幻戯書房)など。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、ブラニスラヴ・ヌシッチ『不審人物 故人 自叙伝』をご覧ください。