ロドルフ・テプフェール『ジュネーヴ短編集』訳者解題(text by 加藤一輝)
古代/学校(クラシック)の言語
『ジュネーヴ短編集』において重要な地位を占めているフランス語でない言語のひとつは、ラテン語です。スイス語なるものが存在しない以上、古典となるとラテン語まで遡らざるをえませんが、テプフェールの場合、ヨーロッパにおける一般的な教養としての古典語というだけでなく、人生にとって重要な科目でもありました。というのも、テプフェールは当初から作家を目指していたわけではないからです。
ロドルフ・テプフェールは1799年にフランス領ジュネーヴで生まれました。父ヴォルフガング゠アダムもジュネーヴ生まれで、シュヴァインフルト出身の家系ですがドイツ語を書いたり話したりすることはなかったとされます。パリ留学で水彩画を学ぶもフランス革命の勃発により帰国、しばらくは革命による混乱で不如意の生活を送りますが、19世紀に入るとフランス皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネやロシア皇后マリア・フョードロヴナにも絵画を買われるほど国際的な画家となっていました。1812年にはパリのサロン(官展)で金賞を獲得、1816年には後援者を訪ねるためイギリスに出張しています。
ロドルフは、こうした父の風景画取材に同行し、少年の頃からサヴォワを旅していました。学校教育を終えたらイタリアで絵画修行する心積もりもしていたのです。ところが19歳の頃、目の不調(飛蚊症のようなもの)が悪化し、専門的な眼科治療を受けるため留学先をパリに変更します。このパリ留学はロドルフにとって生涯唯一のパリ滞在であり、さまざまな分野の学識を豊かにする上でも、またフランス語話者ではあるがフランス人ではないという自覚を強める上でも大いに影響を及ぼしましたが、第一目的であった眼病の改善は叶いませんでした。留学中に画家の道を棄てる決意を固め、以降は教師を目指すべく古代ギリシア・ラテン語の勉強に励みます。
つまりテプフェールにとって古代ギリシア・ラテン語は、父のような画家になるという夢を諦め、手に職をつけるために遅い年齢から始めた勉強だったのです。パリ留学も終わりに近づいた1820年5月、このように母親へ書き送っています。
確かに、古代ギリシア・ラテン語は学校教育の科目として設定されていましたから、その教師を目指すのは打算的な路線変更としては有効な選択肢です。むしろ画家よりも職にあぶれる心配は少ないかもしれません。けれども「成功すれば何でもない」というときの「成功」とは、経済的あるいは社会的な成功ではあっても、自己実現という意味ではないのです。
テプフェールは、進路変更して早くも四年後には、古代ギリシア文学の専門家であることを示すべく『デモステネス政治演説集』(共著)を刊行します。そして同じく1824年、妻の持参金をもとに自身の寄宿学校を開きました。同年12月の手紙では、こう書いています。
テプフェールが古典文学について学術的な研究を行なったのはここまでで、これ以降は自身の小説や旅行記、生徒を楽しませるための絵物語、批評であっても同時代の文藝・美術についての批評を書くようになります。もとより古典文学の専門家を目指していたのではありませんから、教師としての経歴が軌道に乗ってくれば研究を辞めてしまうのは致し方ありません。
では、小説の中でラテン語はどのように登場していたでしょうか。フランス語、あるいはヨーロッパの文学では、ラテン語の一節を格言のように引用して、自著の箔づけに使うことが多々あります。しかしテプフェールの場合、『ジュネーヴ短編集』においてラテン語はむしろ無味乾燥で時代遅れという印象を喚起し、またラテン語を多用する登場人物は堅物という設定になっています。滑稽さを演出するための道具となっているのです。
テプフェールが最初に著した短編小説、そして『ジュネーヴ短編集』にも収録されている「伯父の書斎」は、導入にあたる前口上に続いて、ラテン語の家庭教師であるラタン先生(M. Ratin)の授業で「テレマックの冒険」を拙いラテン語に訳す場面から始まります。主人公のジュールは、テレマックの物語を通して恋心という感情を覚えたものの、ラタン先生が恋愛に対してあまりに禁欲的な指導をするため、テレマックを恋人ユーカリスと別れさせたメントルを褒めるような意見を述べざるを得なくなり、物語を充分に楽しめず、それどころか後々まで尾を引く影響を被ったといいます。
「この後の物語で見られるであろう、ある特徴」とは、恋に臆病で、好意を抱いた女性がいても引っこみ思案なためになかなか声をかけられない性格のことです。科目としてのラテン語教育が、作品本来の魅力を損なうのみならず、青少年の活力をも奪ったというのです。
もっとも、ラタン先生は単に押しつけがましい教師として悪しざまに描かれているわけではありません。むしろ主人公ジュールによる人物評では、人間的な、それゆえ生徒から見ると面白く憎めない先生となっています。
ここには、誠実に生徒と向き合おうとすればするほど立場上ときには抑圧的にならざるを得ない教師という職業そのものの宿命、そして相応の年齢の生徒であればそれを見抜いているであろうと分かっていてもなお平静を装って指導を続けねばならない悲哀を読み取れます。すでに教師を務めていた作者テプフェールは、主人公ジュールだけでなく、ラタン先生のほうにも近い立場であるはずです。
さらに「伯父の書斎」には、ラタン先生のほかにもうひとり、何にでもラテン語を引用し、日常生活には場違いな会話をする人物が登場します。
この「もと中学校教師の老紳士」は、話の本筋とはまったく関係なく、ただ昔の思い出、もはや主人公の記憶の中にしか存在しない人物についての余談として語られています。そして「独特の方法」とは、会話をすべてラテン語の引用で行なうことです。老紳士の引くラテン語は、ウェルギリウス、テレンティウス、ホラティウス、キケロと多岐に亘ります。主人公は老紳士に気に入られており、また主人公のほうとしても「格言の響きに心地よさを感じないではなかった」といいます。
ところが、おかしなことに、老紳士は妻と話すときも同じ調子なのです。ごく普通の家庭的な会話も、ほとんどラテン語の引用ばかりで済ませています。そのため妻は呆れはてているのですが、そのちぐはぐさを端的に表わしているのが、妻による以下の一言です。
夫婦の会話でラテン語とフランス語が互い違いに話される場面は、やや長い作品である「伯父の書斎」に息抜きめいた面白味を加えるとともに、学校での文法教育と日常的な話し言葉との対比を明らかにしてもいます。テプフェールにとってフランス語とは話し言葉なのです。これはスイスのフランス語、すなわち正規の文法に則ったフランスのフランス語ではないスイスらしさの表われたフランス語なるものを考えるときの重要な拠りどころであり、スイス文学に関連づけて敷衍すれば、のちにC・F・ラミュが「ベルナール・グラッセへの手紙」において提起する、「学校のフランス語 français d’école」「習得した言語(そして結局のところ死んだ言語) une langue apprise (et en définitive une langue morte)」と対比された「野外のフランス語 français de plein air」をも先取りしているでしょう。先の老紳士が、退職後も教師だった頃の仕草を引きずっている、古典の引用で会話する、主人公の記憶の中にしか存在しない、といった何重もの設定で過去の人物だと強調されているのとは対照的に、その時その場で話される言語としてテプフェールは山岳地域での土地の者の話し言葉を文字にしています。
もっとも、急いで言い足さねばなりませんが、テプフェールはラテン語やラテン語教育を忌み嫌っていたのではありません。それどころか、保守派の知識人として、当時のラテン語軽視の風潮を憂いてもいます。1835年の「進歩について、小市民と学校教師との関係において」という評論には、以下のような記述が見られます。
「誰でもどこでも使えるドイツ語」とは、スイスのドイツ語ではなく標準ドイツ語という意味でしょう。現在でも、スイスのドイツ語はドイツやオーストリアのドイツ語とは発音や語彙が全く異なり、またドイツ語圏スイス内でも地域差が大きいため、フランス語圏のみならずドイツ語圏スイスでさえ半ば外国語として標準ドイツ語の授業が行なわれています。イロコイ語とは北アメリカ東部の先住民族の言葉で、何でもよいから今も話されている外国語として突飛な例を挙げています。ともかくラテン語だけは死語であり使えないのだから学んでも無駄なのです。このあたりは現在の外国語教育の「実用性」志向とそれに対する反発にも似ているでしょうか。
学校教育による統制を皮肉めかして描き、生きた言語によって小説を書こうと試みつつ、教師や名士としては古典語を擁護する二面性は、マンガも含めたテプフェールの作品の基底を成す諧謔精神にも通じています。規範と逸脱を自覚的に往復してこそ、自己諷刺が可能となるのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。本篇はぜひ、ロドルフ・テプフェール『ジュネーヴ短編集』をご覧ください。