作りたいものを作ればいい

今日は、自分の心に素直に動いてみればいいのではというお話です。
すごく簡単に聞こえますが、意外に難しさを感じている人も多いんじゃないでしょうか。

社会人になってから3年間、悩む時間のほうが長かったのですが、
ようやくブレイクスルー出来そうな予感がしていてます。

キノシタレイの過去

詳しい自己紹介は下のリンクにありますが、長すぎるので今回の話に必要な部分を端的にお伝えさせていただきます!

これまでそれなりに頑張って生きてきましたが(自称。笑)、生きづらさを感じることの多い人生でした。特に集団(学校・部活・会社)との折り合いをつけることに悩むことが多かったです。

みんなと仲良くしたいのにうまくできない、笑っていたいのに笑えない、周りの人がどこかうらやましく見えていたし、自分がずっと邪魔者のような気がしていました。

そうさせていた原因は必要以上の自我。
自分の意見がある、こだわりや信念に基づいて行動できる、突破力がある
頑固、否定的に物事を見すぎる、理想を描きすぎる
といったような特徴を生んでいました。

必要以上に自我があると、自分の心のまま行動したり人にたくさん聞いてもらったりして発散させないと「自分はこんなに我慢しているのに。なんで一般的な意見に合わせないといけないんだ。」と余計に自我を育ててしまっていました。そうして自分の求めている人とのつながりが自分の手によって断絶されていました。

振り返っていると小さな頃の体験にそのきっかけはあったように思います。

お人好しで会社で振り回されがちな父、厳しい家庭教育で中学受験の時に人相が変わっていった姉、暴力が当たり前の塾。
「自分を持たないと、奪われていくんだ。自分のことを守れないんだ。」
と怖がりな僕は小さい頃にそう思ったのを覚えています。
(俺は一匹狼でもいいと父親に宣言したりもしたっけ。)

※これらの体験のせいにしようとは思っていません。
もうすでに起きたことだから、もうすでにあるものだから、うまく付き合っていくんだと思います。

それから学校・部活・会社に入ってからも自我の扱いに苦戦します。
たとえ話ですが…
青色がいいよねという通念を持った集団に入った時に、怖がりな僕は自分がどんな意見を出してもいいように一旦思ってなくても真逆の赤色がいいと意見するようになっていました。本当は黄色がいいと思っているのに。
そうして、周りから怜は赤色がいいらしいと認知され、自分のことが赤色なのか黄色なのか分からなくなり葛藤していました。

そんな経験もあり、「人とのつながり」「違いに寛容であること」「本音で話し合えること」「相手の見え方感じ方を大切にすること」に対してこだわりを持つようになりました。

キノシタレイの今

2022年、たくさんの死に触れあい(詳細は下記リンク)、幼少期から抱えていたなぜ生きるのかという問い・死への恐怖が再燃しました。

なんで死んで全部なくなるのに人は輝こうとするのか
分からなくなっていました。

でも亡くなったおじいちゃんに、意味がなかったよねなんて言う人がいたら自分は怒るだろうなと思っていました。
その時、何かを得るより残すほうが大事なんだと気付きました。
そうすると死への恐怖も和らぎました。僕が死んでも誰かが僕に意味をくれると思えるようになったからです。

それから僕は、自分が幸せを感じるため・この世界をちょっと良くして残して次の世代につなぐために生きようと思いました。
(先輩方がそうしてきてくださったように)

じゃあ、どうすれば僕はちょっとでもこの世界をよくできるんだろう。
ゴミ拾いでも究極いい。でも1mmよりも1cmよくできたほうがいいんじゃないか。と考えました。

僕がパワーが出るのってどんなことなんだろう。
出てきたのは「大切な人(心と心の繋がりがある人・次の世代の人)」「創ること」「見え方や感じ方を守ること」の3つのキーワードでした。
どんなに僕の心の構造が醜いものだったとしても、今の僕は「大切な人の見え方や感じ方を守る何かを創ること」に一番パワーが出ます。

ここまでわかると会社の仕事(営業)と、そのやりたいことにすごくギャップを感じるようになりました。自分は作る側ではなく売る側だなとか、会社から決められた顧客(今は大切じゃない人)にパワーを割けないないなとか、会社の方向性は僕の大切にしたいものと被っているんだろうかとか。異動がなかったら辞めようと考えていました。

3月1日に内示を受けたのですが、職種の異動はなし。
あ、辞めようと思いました。
会社で仲良くしていただいている先輩に辞めようと思いますと相談をして、ここまで書いたような一連の話をしました。
そうすると”作りたいものを作ればいい”と言ってもらえました。
今の会社で起案すればいいし、無理なら本社側で起案してもいい、それでも無理なら転職すればいい、それでも無理なら自分でやればいいと。

心がフッと軽くなったと同時に、もし今の会社で起案が通った時に、今の僕じゃ仲間になってくれる人がいないだろうなと思いました。だから、仕事を頑張ることにしました。
(勤務している会社のミッションやカルチャーは「人の見え方や感じ方を守る」と親和性が鬼のように高いんです!新卒の時にミッションやカルチャーを大事にしておいてよかった…)

自我を自分を組織要請から守るために使うのではなく、自我を実現するために組織要請を意味あるものと捉えるようにすればいいんだ。
自我をどこまで出すか見計らうのではなく、全部出し切っていいんだ。そう思えました。

キノシタレイの未来

今までは自分の考えを、自分の中だけで深めていました。
だけど、僕のやりたいことは「大切な人の見え方や感じ方を守る何かを創ること」です。自分以外の誰かが関係しているんです。

だから、たくさんの人に
・見え方や感じ方が守られた奪われた経験は?
・なんでだと思う?
・何があったらよかったかな?
と聞いて回っています。
※このあたりについて興味ある方いたらぜひ連絡ください!
対話させていただきたいです。

今見えてきているのはこのあたり▼

  • 自分の普通が揺れ動く体験をしたことがなく、自分の見え方や感じ方がみんなにとっての普通だと思っている。

  • そのままの自分を知らない、愛せていない、愛されていることに気付けていなくて人を愛せない。

  • 自分の想いのままに動けていなくてフラストレーションがたまっていて、自分の正しさを主張したい・聞いてほしい。

  • 自分の見え方や感じ方を奪われてきて、無意識に他の人にもそうしてしまっている。

  • その人以外の誰かや理想像や普通と無意識に比較をして、足らずを分析して、勝手に悪いことだと評価して決めつけている。

  • 仕事が忙しすぎたり、人に会いすぎたり、情報が多すぎたりして、違いを受け入れる余白がない。

そして面白いのが、多くの人が大切な人の見え方や感じ方を守りたいけれどそのやり方が分からないということです。

(推測の域を出ないのですが、家庭内のコミュニケーションは関係性が強いのかなと思ったりしています。
家庭のことって他に相談しにくかったり、手探りでやって不安が多いんじゃないかなと。そしてこれは脈々と受け継がれていくもの。しかも多くが自分はこれをされてよかった/嫌だったと子供ではなく自分主語で判断されがちで世代を超えて積み上がって行きにくい構造になってます。
僕も年齢的にパパになってもおかしくないですが、明日子供がおもちゃ屋さんで泣きわめいたらどうしますかと言われても分かんないです。
もし、パパママさんでお話を聞かせてくださる人いたら聞かせてください!)

これから上記のテーマをどうにかできる、創作物を作っていきます。
もし、興味がある方がいたらご連絡下さい(2回目)!
感想をいただけるだけでも嬉しいです!
参考になりそうな情報をいただけたりするともっと嬉しいです!

作る過程や、思考の過程はnoteにも定期的に投稿していきます。
作りたいものを作ること、会社の仕事、今日も頑張ります!



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