第二次世界大戦でアメリカ軍に凄まじい恐怖を与えた男。舩坂弘。
舩坂弘をご存知でしょうか?第二次世界大戦でこの日本軍兵は1人で合計1000人以上の相手兵を殺傷しました。今回は伝説となった日本兵を紹介していきたいと思います。
目次
・1舩坂弘 ( ふなさか ひろし )の生い立ち
・2アウンガル島の戦い(100人以上殺傷)
・3帰国後
1舩坂弘 ( ふなさか ひろし )の生い立ち
栃木県上都賀郡西方村で生まれ育った。
農家の家庭で育ったったが、幼い頃から手のつけられないやんちゃ少年で村ではガキ大将的存在だった。
小学校教育を終え、公民学校を卒業した後も、それだけでは満足できず、早稲田中学議事録を独学で勉強をし、その甲斐あって専門教育大学で3年間さらに勉学を励んだ。
その後、宇都宮第36部隊に入隊した直後に満州へと渡る。
入隊当初から、剣道と銃剣術は優れており、特に銃剣術は軍を抜いていたとされている。
当時の教官は、「お前の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と言われていた。
入隊以来、射撃に関しては30回以上の賞状を得ていた。
この快挙は今までの兵隊では一度もなしえなかった快挙である。この頃から軍の中では有名だった。
1944年戦争の悪化により動員令がなされ、アンガウル島に動員する事になった。
2アウンガル島の戦い(100人以上殺傷)
この戦いは第二次世界大戦において、パラオ、マリアナ島の最後の戦いである。ここで 舩坂弘 ( ふなさか ひろし ) は語り継がれる伝説を作ったのである。
この戦いで100人の相手兵士を銃撃で殺傷したとされている。
この時、別の作戦で中隊が壊滅する中、船坂は銃を真っ赤になるまで撃ち続けたという。
その後島の北西へゲリラ戦へと移行したのである。
ゲリラ戦3日目に米軍からの攻撃により、左足の付け根に裂傷を負う。
銃火が飛び交う中、船坂は数時間放置され、やっと駆けつけた医師は足の症状を見て、自決用の手榴弾を渡して立ち去ったと言う。
瀕死状態の船坂は自らの身につけていた、日章旗を足に巻きつけ止血をしながら、1日掛けて地面を這い蹲りながら移動し、日本軍の洞窟陣地へ辿り着いた。
そして翌日は怪我が嘘のように足を引きづりながら歩けるようになるまで回復していた。
その後、戦地に戻り、同じように致命傷を負うも数日後には戦闘可能な体に戻っていた。
これについて本人は「元々、傷が治りやすい体だった」と証言している。
船坂はどんなに致命傷を負って米軍に囲まれていても手に持っていた銃を使い米兵を3人撃ち、その場に落ちていた短機関銃で2人を撃ち、そのまま剣銃で1人を刺したりと人間業とは思えない技量で敵を殺傷していった。
その姿を見た部隊員は、船坂の事を「不死身の隊長」と言葉にした。
戦いも終盤に差し掛かり、水不足、食料不足になり徐々に日本軍は追い込まれていく。
そして、船坂も洞窟壕で自決を決意した。
壕の中は、自決を決行した兵士で溢れており、うめき声があちこちへと飛び交う、まさに地獄のような状況だったそうだ。
船坂も後を続いて手榴弾を使い自決を図ったが、なんとそれが不発に終わり、腹部に大きな傷負い、這うことしかできなくなった船坂はふと腹部の傷口を見るとウジが沸いているのに気づく。
船坂は「これでも死なせてもらえないのか。」と大きな絶望感に追われた。
船坂は死ぬ前に、1人でも多くの敵軍を倒したいとの思いから、自らに6発の手榴弾を身につけ、拳銃を1丁持ち、何日も這いつくばり敵軍指令テントへと20メートルの距離まで辿り着いた。
この時には、体中に20箇所以上の致命傷を負っており、体中壊疽(えそ)をおこしていた。
常人では生きる事は、不可能に近い状態であった。
その 姿を見るものは 、亡霊、恐怖、驚きと狂気を感じたに違いない。
敵指令テントに集まる人数は約1万人。船坂は敵軍がテントに集まったと同時に突進すること決めていた。
見張る兵が6人、戦車1個、砲兵6台が準備されていた。
そして遂にその時がきた。
草木の茂みから立ち上がった船坂は敵軍へ覚悟を決めて突進した。
異様な風貌をした日本人に気づいた、アメリカ兵は言葉を失ったそうだ。
米軍が動揺を隠せない状態で、突進するも頭部を撃たれその場で崩れ落ち戦士と判断された。
その後、米軍医師により遺体と思われたが息がある事を理由に船坂は病院へ運ばれその後一命を取り留めた。
運ばれた当初の船坂の傷、手榴弾を身につけた姿を見て米軍は驚愕した。
その後、目を覚ました船坂はアメリカ軍に同情されたと感じ、医療器具を自ら破壊し、自決しようと試みた。
この奇妙な日本兵を見て船坂はアメリカで話題になった。
「これがハラキリだ。これがサムライの生き方だ」とアメリカに名を知らせる事になった。
3帰国
アウンガル島の戦いで日本が玉砕した後、アメリカの捕虜として過ごしていた、船坂は1946年に帰国できることになった。1年前に戸籍上、戦死を知らされていた家族は戻ってきた船坂に驚きを隠せなかった。
既に、お墓が作られており、すぐにお墓から名前を取る作業をしたという。
その後、自らの体験から、他文化を学ぶことが日本の産業や発展に活かされると感じ書店経営を始めた。
それが渋谷駅スクランブル交差点近くに存在する。
「大盛堂書店」である。