社会を裸足で歩く
社会なるものの実態が掴めない。
本に書いてある定義、ネット上に転がってる誰かの解説。その文字を自分の中に書き写して、分かった気になるのなんて簡単で、でもそれは分かったふりをしてるだけで、自分の心で理解はしていない。
自分の物語には刻まれない。
大学のキャンパスの中で、講義を受けて、先生の話を聞いて。14回か15回のカウントダウン。
その中でわたしたちは、歪な社会のかたちにどう気づけば良いのだろうか。もしわたしが目を瞑っていたら、こういうかたちだ、って誰かに伝えられるだろうか。
目に見えるもの、答えっぽいもの、誰かが自慢げに語る武勇伝、人生の先輩からのありがたい話、そのどれもが嘘っぽく聞こえてくるなら、わたしと社会の最短距離を拒んでみたい。
複雑で歪な社会を裸足で歩いてみたら、きっと足の裏でそのかたちを感じとることができる。
自分の感性が試される。
裸足?素足?
何が適切な表現かわからないけれど、自分を守るための靴を履いて歩けば、自分を着飾る靴を履いてみれば、安全に、鈍感に、痛みなく、そして速く、行きたいところに行けるだろうってことだけはわかる。
それはきっと楽しい。でも、おもしろくはない。
その道を進むのが、わたしである必要もない。
デジタルとアナログ、目的と手段、都市と地方、どっちが大事かじゃなくて、どっちかでもなくて。
その間にきっと物語があって、その物語と自分の暮らしを重ねてみたときにどんな景色が見えるのだろうか、そんなことに想いを馳せる、実際に覗いてみる、その場に立ってみる。
誰かと共感しあったり、不毛な言い合いをしたりをするかもしれない。そんな人間的な営みの中に自分を置いてみよう。
わたしにとって、その手段が、ボランティア。
ボランタリーなかかわり、コミュニティ、ネットワーク。資本主義や新自由主義の影響を大きく受けながら、それらが大切にしていること・残したいものってなんなんだろう。
疑いのない答えではなく、むしろ問いの集合体、発生源がボランティア。
社会を裸足で歩く。足の裏から伝わる様々な感触を受け止めて、そのかたちを確かめて、わたしに刻まれる傷や痛みとともに抱きしめてみる。
きっとその弱さの分だけ、自分を証明できる。わたしの孤独に役割を与えられる。
自分のくらしと社会が交差する、まずはその瞬間と出会うことからはじめよ。