母校の大学で授業をした
大学を卒業して久しい。
卒業してからも度々訪れているため、そこまで久しぶりな感じはしていなかったが、キャンパス内の景色はたしかに変わっていた。
見ない間に取り壊された棟、ぽっかり空いたその空間には緑が広がっている。元々そこに何があったのかをうまく思い出すことができないのが、少し寂しい。
ゼミの同期の結婚式以来会っていない指導教員、いやボス。久しぶりに会えるかなと研究室を訪ねたが、不在だった。
頑張ってます、そう伝える瞬間はまだ先なのか。
まだまだ頑張らねばならないと背中を押されたような気持ちになる。
授業の打合せまでまだ少し時間がありそうだ。キャンパス内を歩き回ってみた。
山の上にあるだけあって、空に近い。学生時代のわたしは、ちゃんと空を見上げていただろうか。
卒論発表をした教室は、当時できたばかりの棟だった。少し年季の入った外観。後輩学生によってつけられた手垢から、日々の営みを感じ取ることができる。
授業が終わったようで、鐘の音が鳴り響いた。それと同時に、わたしの前を走り抜けていく人がいる。
背中しか見えなかったが、間違いない。その人はボスだ。
全速力で追いかければ追いつくし、一言挨拶できたはず。
でも、追いかけなかった。
追いつかないことに意味がある気がした。
目の前の事象に対して、何でもかんでも意味づけしてしまうだけ。それはわたしの性格。
わたし以外はそこに何の価値も感じないと思う。
でも、今じゃなく、これからもっとその背中を追いかけなければいけない気がしたんだ。
今回わたしがお声がけいただいたのは、同窓会の寄付講義として開講されている「仕事とキャリア〜卒業生から学ぶ〜」。
ゲストスピーカーとして、これまでの仕事について、仕事をしてみて大変だったこと、その職業で求められる力とは何か、などを伝える役割をいただいた。
履修学生の中には、わたしが卒業した教育学科の学生はいなかったが、心理、建築、経営……多様な学部・学科の学生がいて、どの学生も熱心な様子だった。
「なぜ転職をして、大学のボランティアコーディネーターへ?」
「ボランティアのお客様化を防ぐ(主体性を引き出す)ために意識していることは?」
「失敗してしまうかもしれないと思うと、その先の一歩を踏み出せない。どうしたらその一歩を踏み出せる?」
いろんな質問をいただき、それらに精一杯応えたつもり。
答えと言えるものを持ち合わせていない、まだまだ未熟な人間ゆえ、今の自分はこう考えながら試行錯誤している、というニュアンスで伝えたつもりだ。
発表の最後は、学生へのメッセージを!ということであったが、上から語れるほど驕ってもいないし、わたしは大学生を含む多くの方々と対等でありたい。
だから、こんなことを目指して一緒に社会をデザインしてみませんか?という問いかけで締めた。
共感するもしないもその人次第。
自分が豊かになれる暮らしを、自分が生きたいと思える社会をつくっていったらいい。
会場の後方には、学生時代にお世話になった職員が並んでいた。不思議な光景だ。
少し気恥ずかしいが、壇上から思いっきり手を振ってやった。あなたたちのおかげで今わたしがここにいるんだよ、と。言葉にできない想いをのせて。
今のわたしが取り組む大学教育、そして多様な人を対等につなぐボランティアコーディネーションにおける哲学は、間違いなくこのキャンパスで育まれた。
忘れずに、ずっと心に刻んでおきたい。
任期付きの専門職であるわたしの未来は、わたしにだってわからない。常にわたしが何者なのかを問われ、証明しようともがく日々。
それでもたしかに前に進んでいたい。
わたしが大切にしているものを、ちゃんと大切にできるような実践を拡げていきたい。
帰りにもう一度、ボスの研究室を訪ねてみた。
やっぱり不在だった。
どうやらその背中を追いかけ続けるしかないらしい。