メモを取るべきか、取らざるべきか
メモを取るべきか、取らざるべきか。一般論としては、メモは取るべき、いやもっと踏み込んでメモを取れと言われる。大抵の人間の記憶力は心許なく、実務上覚えておかなければならないことをメモなしで全て覚えて置ける人はそう多くない。覚えておくべきことを覚えておけないのであれば、メモを取れ ー ごく当たり前の話である。
記憶力のキャパシティの観点から多くの人がメモを取らざるを得ない状況にあるため、メモの取り方や効用に関する話は人気がある。特に有名なものは前田裕二氏による「メモの魔力」だろう。2018年に出版された本で、その後数年間で70万分以上売れており、ビジネス書としてベストセラーの域に入っている。
一方で、「メモ不要派」の人も一定数存在する。有名なのは堀江貴文氏で、彼は(メモを時には取るというタイプではなく)メモを一切取らないというかなりラディカルな「メモ不要派」だ。メモがなくても、スケジューラなどのメモと同じ効果を得る方法はあることに加え、そもそも「メモを取らないと忘れる程度」のことは覚える必要がないのではないか、というスタンスだ。メモで脳を補うのではなく、脳が自然に有している機能を活用していこうということになる。
どちらのスタンスも納得感のある主張がなされている。この手の話はどちらが正しいということはなく、要はどう組み合わせて使い分けていくかが重要だ。メモを取ることが目的となってはいけないが、多くの人にとってメモを全く取らずに耐えられるほど実務は甘くない。
外部化装置としてのメモと、ミクスチャー装置としての脳
結論としては、「外部化装置としてのメモを使い、ミクスチャー装置として脳を使う」ことが良いのではないかと思う。メモを取ることと取らないことのそれぞれに明確な役割を持たせると使い分けがしやすくなる。
「外部化装置としてのメモ」は文字通りの意味で、受信した情報や自分の思考などをメモに書きつけ、外部化する(脳の外に出す)ということだ。
外部化することのメリットは大きく分けて2つある。1つ目は、脳のキャパシティが空くということ。その情報や考えたことを記憶しておく必要がなくなり、あとで思い出すときにも脳の労力を消費しなくて済む。
2つ目は、別の視点を持ち込めるということだ。メモとして外部化しておくと、自分が書いたものを客観的に眺めることができるようになる。メモを書いた自分は過去の自分であり、現在の自分とは少し異なる視点で物事を見ていたり考えていたりする。その過去の自分が書いたテクストを客観的に見ることで、自分にとっての新たな情報としたり、過去の自分に別の視点を付加して論を発展させたりすることができるのだ。
反対に、「ミクスチャー装置としての脳」は徹底的な内部化を企図する。情報や思考をとにかく脳にぶち込むことで、その中で色々な情報や思考が混じり、切断され、また繋がることを期待する。何が出てくるかわからない「闇鍋」のようなものだが、予測不可能な中で意外性のある知のつながりが見出され、新たな思考が展開される。
この活動は外部化としてのメモと補完的だ。メモを見てそこに書かれたものを脳にぶち込むことで、過去の自分が考えたことと今の自分の思考とを混ぜ合わせることができ、単に今の自分が考えていること以上のものを生み出すことができる可能性が出てくる。
ちなみに私自身は放っておくとメモを全く取らないタイプである。それで致命的に困ったこともあまりなかった。メモは板書を丸写しするようなイメージがこびり付いており、どうしても前向きに捉えられなかったのだ。しかし、メモを外部化装置として思考を前進させるツールの位置付けで捉えるようになってからは、積極的に(しかし限定的に)メモを活用するようになった。
メモと脳を2つの装置として見做すこと。この視点に共鳴した方は是非試行いただきたい。