映画「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家・森山大道」特別寄稿~演出家・小山和行
「精度の高い地図」としての映画。
映画の序盤、こんなシーンがあって
試写室の席で思わず前のめりになった。
…都内を走る一台の乗用車。
映画のカメラがそれを並走しながら追う。
助手席に大道さんが乗っている。
どこかに撮影に向かう途中らしい。
大道さんがカメラを構える。
手のひらサイズの小さなカメラだ。
それなのに、
まるで街並みを切り裂いてゆくような殺気が走る。
車窓に映った景色が流れ、
都庁が一瞬現れて消える…。
岩間玄監督の劇場用ドキュメンタリー映画、
「過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道」は
心地よい高揚感と熱量をもつ作品だ。
「写真集をバババとめくるように」見て欲しいと岩間監督。
その言葉通り、この映画には大道さんの作品が
眩暈のような編集と音楽(作曲:三宅一徳)と伴に次々と現れる。
考えてみれば、これは勇気のいることだ。
写真が発する音にならない音、騒めき、軋み、深い沈黙…、
それらに編集と音楽という具体的なカタチを与え、
映画的な時間の流れとして再構成してゆくのだから。
その勇気が熱く、心地よい。
意表をつかれたのは
大道さんのデビュー作を復刊するまでの過程。
編集者や造本家といった本づくりに携わる人々の
ただならぬ熱量が描かれるのだが、
それを表現するのに、なんと樹木が伐採されて
印刷用紙が誕生するところまで遡るのだ。
こうして映画は、
パリでの世界的写真イベントというクライマックスに向け
加速度的に熱を帯びてゆく…のだが、一方で不思議な感触も残る。
大道さん本人へのアプローチの仕方が、
高揚感や熱さとはむしろ逆に見えるからだ。
「森山大道とは、何者なのか?」
「写真史上、最大の謎(エニグマ)に迫る」というのが、
この映画の予告編でのキャッチフレーズだ。
岩間監督は、これまでテレビの世界で
刺激的な挑戦を続けてきた人だから、
写真界の巨人に一体どう切り込むのか?
そんな興味もあったのだが、ちょっと様子が違う。
例えばこんなシーン。
…盟友だった中平卓馬さんの命日に、
ふたりの仕事場があった青山を車で走る。
雨が降っている。
大道さんがフロントガラス越しにカメラを構える。
ファインダーに街並みが写る。
そのすぐ隣にいるのに、
撮影も兼ねる岩間監督はすっかり気配を消して、
ただ、かけがえのない時間を共に呼吸している。
何も質問しないし、説明もしない。
雨音がいつしか消える。
大道さんはまだカメラを構えている…。
あるいはこんなシーン。
…出来上がった写真集を大道さんが初めて見る。
本の作り手たちが固唾をのんでそれを見守る。
最後のページを見終わった瞬間、
岩間監督のカメラは
大道さんの顔をアップで狙いにいくかと思ったら、
やや引いたサイズで後ろ姿を撮っている。
その人が放射する見えない光を、
そっと閉じ込めようとするみたいに。
またとない場面に立ち会っているのに、
映画のカメラは「切り込む」どころか、
むしろ一歩下がる印象だ。
岩間監督の「監督日記」には、
大道さんのこんな言葉が引用されている。
「きっと岩間さんにしか撮れない
そういう映像があるんですよ。
だからいいんですよ」
(中略)
「岩間さんの手になじんで、
写りさえすれば、
カメラなんて何だっていいんですよ」
(中略)
「要は、何を写すかってことですね」
そう、何を写すか。
岩間監督は、ひたすら日々のスナップワークや、
イベント出席、出版打ち合わせなどの「現場」を追う。
正面切った大道さんへのインタビューはない。
あくまで、ふと出た言葉や振る舞いを積みかさねてゆく。
そして時おり、狙いすましたように
生き様が凝縮されたような場面に出会う。
けれど、決して土足で踏み込むようなことはしない。
大切に箱に入れて、そのまま観客に差し出す。
解釈や、解説はしない。
輪郭を丁寧に描いてはゆくが、核心はあえて余白のままだ。
「森山大道とは、何者なのか?」
答えに辿り着くのは、あくまでも観客の役目。
そのための「精度の高い地図」が、この映画なのだと思う。
最後に、好きなシーンをもうひとつ。
岩間監督は、大道さんがサインをする姿を繰り返し撮っている。
街中で、イベント会場で、
大道さんは気さくにファンからの申し出に応じる。
上体をちょっとかがめて、
丁寧にペンを走らせる大道さん。
握手をしたら手が温かそうだな、と思った。
小山 和行 (演出家・プロデューサー)