”いじめ”加害者が出世して、被害者が落ちこぼれる法則
こんにちは。岡本ナナです。
依然としてTwitterにハマっているんですが、露骨に口が悪い人のプロフィールを見ると、『いじめの被害者』であることがやけに多いなと思います。
ところで、『いじめられっ子は大人になっても過去のトラウマが原因で今でも不幸なのに、いじめっ子は自分の犯した罪なんてすっかり忘れて充実した人生を送っている』という胸糞エピソードってよくありますよね。
本来なら『加害者が罰を受けて、被害者はその後幸せになる』というのが正しい流れだと、多くの人は考えます。
でも、それは絵本の中の世界の話。
現実は現実のルールに基づいて物事が動きます。
このnoteでは、主に『なぜ被害者の方が不幸にならなければならないのか』について説明していきます。
その人の『現在』は、『現在の行動』で決まる
まず原則として、その人の『今』が幸せかどうかは、『今幸せな行動を取っているかどうか』で決まります。
例えば子供のころ人見知りで、近所の人をシカトしていても、今『こんにちは!』と言えば『こんにちは』と返ってきます。
『おまえ、子供のころは挨拶しなかっただろ!』なんて言い返されたりしません。
当然、昔クラスメイトをいじめていた人であっても、『今』周りの人に親切にしていれば、『いつも親切ですね。ありがとう』と、感謝されます。
逆に、昔いじめられて辛い思いをした人であっても、『今』周りの人に暗い接し方をしていれば、『何あの人…』と、疎まれます。
そこに『過去のエピソードが暗ければ失礼な態度が免除される』というルールはありません。
現在の行動が現在の人生。
それは当たり前で、例外はありません。
いじめを受けた人は現在の行動が後ろ向きになる?
ところが、いじめを受けたことで、他人を信頼できなくなったり、無条件に安心できなくなったりして、前向きな行動を取りづらくなるということはよくあります。
そして、いじめを受けたのは『過去』だけれど、行動が後ろ向きなのは『現在』なので、『過去のいじめが原因で、今でも幸せになれずにいる』という状況が起こるわけです。
『今』不幸なのは、ぶっちゃけその人自身のせい
でも、いじめが『過去』のものであるなら、『今』その人をいじめているのは、その人自身です。
さっきも言いましたが、『今』付き合っている人に卑屈な態度を取れば、当たり前ですが『卑屈な人』として扱われます。
その人が『今』不幸なのは、頭の中にいじめっ子が住み着いているせいではなく(てかそんな技術はない)、その人自身が『そういう人』をやっているから。
『過去のトラウマによって前向きな行動が取りづらくなっている』のは事実ですが、『不可能』になったわけではありません。
極端に言えば、『昔いじめられたから前向きになんかなれない』というのは、デブが『運動苦手だから走れない』と言っているのに近い状態なんです。
『不幸』でいた方が得な場合もある
また、『いじめられた過去』がその人のアイデンティティ(というか一種の誇り)になっている場合もあります。
そういう場合、現役のいじめっ子の存在を見たり、いじめに無関心な人を見ると、『この世界は腐っている(そんな中、私は被害者の気持ちがわかってあげられる、まともな自分でよかった)』といった優越感を感じるようになったりします。
実際、いじめの被害者で、Twitter上で『いじめ』の現場を必死で探しながらも、それを解決するための行動は取らず、『こんなことをする人が多すぎて悲しい』と非難するだけの人がよくいます。
裏を返せば、『わかってくれない人がたくさんいる方が嬉しい』ということです(それが『当事者』としての誇りを強化するため)。
いじめ被害者は幸せになれる?
結論を言うと、『いじめの被害者は幸せになれない』ということはありません。
ハードルは格段に上がりますが、過去に辛い体験をしても、『現在』の行動を前向きなものに切り替えれば、幸せになれます。
(『不幸』がちょっとした快感の引き金になっている人は、その快感への執着を捨てることが前提条件となります)
でも、いきなり完全に前向きになるのは無理。
それはデブがいきなりアスリートと同じ練習をこなすようなもの。
だから、最初はこんなふうに考えてください。
『もう充分苦しんだかもしれない』
そうしたら、そのうち『過去のことなのにいまだに自分だけ苦しい』ことに納得がいかなくなって、自然と行動が変わってきます。