蒸気機関車と浅草「新世界」輝くミラーボール
また60年以上も前のお話です。
今年に入って昔の話をnoteに投稿し始めると、色々と思い出すことが多くて整理しているところです。
少しずつ投稿しようと思っています。おやじの独り言と思ってみてください、よろしくお願いいたします。
ドンドン思い出すので今回は3.000文字越えになりました、悪しからず。
私が10歳前後の頃に、まさに上の画像にあるように、父親と私の二人でこんな車両に乗って上野までやってきました。
おそらく所要時間は9~12時間掛かっていたと思われる。今だとパリ近くまで行ける時間を掛けていたことになる。
蒸気機関車は基本的に上の画像の通り、モーレツな煙と石炭の燃えカスをまき散らしながら力強く、多くの客車を牽引して走る乗り物だった。
「余計な話だが、トイレのお話、知っている方多いと思うが、当時このタイプの列車のトイレはすべて、線路上に巻き散らしていました。」
蒸気機関車が牽引する客車の窓を開けたままにすると、目に石炭の燃えカスが入ることが、結構な頻度であった。
列車がトンネルの中に入るとすぐに、皆が皆、窓を勢いよく一斉に閉めるので、あちらこちらから「バン・バン・バン・・・・・・」と音が聞こえたものである。
これは蒸気機関車の凄い煙が客室に入るのを防ぐためです。
大きな駅では停車時間が長いことが多く、待ち合わせどうかわからないが、そんな時間を結構取っていたので、時間の掛かった原因ではなったかと思う。
黒磯(違う駅かもしれない。)という駅では、駅弁と熱いお茶(小さくて半透明のビニール製でした。急須のような形の容器の中に、緑茶のティーバッグが一個入っていた。)がとても美味しかった覚えがある。
停車してる間に、お湯は追加できました。
父親はお酒と煙草と食料品を販売している小売店を経営していた。
そのほかに商工会議所の会頭か副会頭をしていた。
この役職が、東京に時々出かける理由だったように思う。
その用事は少し変わった内容で、興行師との交渉をするという役割だった。具体的には、ある歌手に依頼して田舎の体育館で「〇〇〇〇ショー」を開催してもらうための準備を進めることだった。
当時はプロダクションではなく興行師が力を持っていたようだ。
あまり覚えてはいないが、名前を挙げてみると、坂本九、島倉千代子、西郷輝彦もっとたくさんいたはずだが覚えていないし、調べようがなかった。
どの歌手のショーの時でも父親のおかげで、一番前で見ることができた。この時の印象でハッキリ覚えているのが、歌手の人というより、ドラムのセットに使用されている金属の金具に照明が当たってキラキラする光景が何とも言えず、毎回夢心地のような気分で眺めることだった。
なにかその時だけ別世界にいる気分になれたように思った。
薄ら覚えだが、坂本九さんとは、会場の近くにある河原に、子供たちと一緒に魚を素手で捕まえに行った覚えがあって、記憶の中の映像には、九さんが橋の上から僕たちを見ている、この画像がハッキリと思い出す。
この頃は日本全体が、高度経済成長期であってこのような、1回の興行で300万とか400万とか掛かるようなことも、行うことができたのだと思う。父親に後から聞いた話なので、間違っていたらごめんなさい。
でも当時の景気がイケイケだったことが、良くわかる催し物だったように思う。
父親が東京に出張で来ると、いつも上野駅前の旅館(orホテル)山城屋というところに泊まっていた。
当然、私が一緒に行った時もそこに泊まることになる。
記憶だから何とも言えないが、1 階がおもちゃ屋さんで2階からが宿泊施設だったと思う。
その旅館に泊まった時に、夜遅くパトカーのサイレンの音が何回も鳴るのが凄くが気になり、なかなか寝付けなかったのを覚えてる。
そうなったのも田舎では、まず白黒のパートカーではなく、確かジープに赤色灯だったと思う(いまの自衛隊みたい)。
それに東京のようにサイレンを流して走るようなことは、滅多に見ることがなかったからである。
東京での行動は、父親の後をついていくのだが、賭け事が好きな父親は、一度、たぶんだが後楽園遊園地の近くの競輪場に行ったときには、私は何か食べ物を買ってもらって一人でかなりの間待たされた記憶がある。
(当時本人は競輪場の事は分かっておらず。)
その時は競輪で儲かったのか、妙にご機嫌で戻ってきたことを覚えている。父親の楽しみのひとつだったのかもしれない。
この時には、行ったかどうか覚えていないが、とにかく安く手に入れられるところに行っていたようだ。
卸値で買える薬屋さんやら、馬喰町の大きな卸問屋で家族の洋服、下着類など小物を購入していたようだ。
ここは会員制なので普通は入れませんが、田舎の友達の会員カードを使っていたようだ。
もちろん違反行為です。(この辺のことは後から聞いた話。)
興行師との商談だが、場所が浅草公園6区にあった「新世界」(その中にある、多分大きなキャバレー)というところだった。
近くに女性の人がいた記憶は無かった。
天井にミラーボールがあったところである。
私は薄暗いところで、ひとりで待たされていたようだ。
昔からひとりは割と慣れていたので、泣いたりもせずに、この環境に興味津々だったと思う。
ミラーボールが大きく見え、その光があちらこちらと飛び散るようで、すごく不思議で興味が沸く存在であり、物凄い驚きだったように思う。
新世界のどこかで興行師と商談していたようです。
結構な時間がたち父親が戻るとすぐに一緒に旅館に戻ったように思う。
浅草駅に着くまでにもう一つ記憶が残る光景があった。
それがこの新世界も含まれるのだが、浅草公園6区と言われる歓楽街にある映画館街である。
そこののぼり旗の並びの驚きだった。
この光景はなぜか、新世界のなかにあるミラーボールよりさらに衝撃を受けた光景であった。
田舎にはふたつ、離れたところに映画館あり、一軒は「ションベン臭い」(方言かもしれないので=トイレの匂い)映画館だった。
田舎では映画館はしょっちゅう行けるところではなかったこともあり、歌手のショーを見るように、憧れの場所でした。
わが田舎においては、小学生で初めて「ミラーボール」見た人で、ギネスブックに載るような出来事だったと思う。
60年以上も前の東京旅行を、これだけハッキリ覚えているのは、かなりの衝撃の体験の連続だったように思うが、その当時の本人としてはそれほど感じていなかったようだ。
今もそうだが、私には急激な環境の変化に対応する術があるようです。
この理由のひとつとして、物事にすぐ厭きるということがあるからかもしれないこと。
いまでも、いいところでもあり悪いところでもある。
このnoteも厭きることが来るのかもしれない。
誰にもわからないことだが、もうすぐnoteを始めてから3か月になる。
厭きないうちに頑張って書くことにしよう。
書くことがこんなにも楽しいと感じるのは初体験である。
ここまで読んで頂き感謝です、ありがとうございます。