俵の藤太物語
橋のたもとに、一人の女が立っていた。いや、正確には、それは人の姿をした存在であったが、その正体はただの人ではなかった。その女は、まるで蛇のごとく、否、蛇などという生易しい存在ではなく、大蛇と呼ぶにふさわしい禍々しさと威厳をまとっていた。その鋭い瞳は、行き交う者の心を見透かすようであり、その存在感は、ただそこに佇んでいるだけで人々を震え上がらせた。橋を渡ろうとした者たちは、その異様な雰囲気に恐れをなし、足を止め、ある者は引き返し、またある者は祈りを捧げながら道を変えるしかなかった。
この橋は、都へと通じる唯一の道でありながら、その存在があまりに恐ろしいため、長年人々に敬遠されてきた場所であった。村人たちは、この橋に潜む者を「橋の主」と呼び、決して近づいてはならぬと口伝えしてきたのだ。しかし、その正体を見た者はおらず、噂だけがひとり歩きしていた。ある者は、橋の主は怒れる精霊だと言い、またある者は、失われた魂がこの世に残り続けるための化身だと語った。だが、誰一人として、その正体を確かめる勇気を持つ者はいなかった。
誰もがその橋を避け、近づくことすらためらっていた。しかし、その恐れを知らぬ若者が一人、迷いなく橋へと歩を進めた。彼の瞳は真っ直ぐで、その歩みは揺るぎなかった。若者の名は藤原の藤太。都へ大事な俵を届ける使命を負っていたのである。彼にとって、この橋は避けられない道であり、恐怖に屈して迂回する時間の余裕などなかったのだ。
藤太は、幼い頃から「負けん気の強さ」で知られていた。どれほど困難なことにも決してひるまず、何があっても己の信じた道を進む男であった。今回の使命も、彼にとっては誇りであり、生きる意味そのものであった。都で待つ人々のため、そして自分の矜持のため、彼は恐れを押し殺し、橋へと足を踏み入れた。
大蛇は、その若者の姿に気づき、するすると橋の中央へと進み出た。長い体をくねらせながら、鋭い目で若者を見据え、低く、しかし響き渡る声で問いかけた。
「なぜ、おまえはこの橋を渡ろうとするのか。誰もが恐れをなして引き返すこの橋を、なぜおまえは前へ進もうとするのか。」
藤太は、大蛇の威圧にひるむことなく、きっぱりと答えた。
「この俵を都に届ける必要がある。都で待っている人々のために、どうしても届けなければならない。だから、私はこの橋を渡らねばならないのだ。」
大蛇は薄く笑い、その口元には不吉な光がよぎった。
「ならば、その命、もらい受けることになるぞ。それでも渡るのか?」
しかし、若者の決意は揺るがなかった。
「この命に代えても、私は俵を運ぶ。たとえ命を落とすことになろうとも、私の使命を果たさねばならないのだ。」
その瞬間、大蛇の姿がゆらりと揺れ、光を放ちながら人の姿へと変わった。そこに立っていたのは、美しい龍の女であった。長い黒髪は風にたなびき、その瞳には悲しみと決意が宿っていた。
「どうかお願いです。私たちの里を救ってください。あの忌まわしきムカデを退治してください。あれがこの山を支配し、私たちを苦しめているのです。」
藤太は一瞬、驚きの表情を見せたが、すぐにその瞳に決意の光を宿し、はっきりと答えた。
「しかり。その命、受け給われり。私はあなたの願いを聞き届けよう。」
龍の女はほっと息をつき、若者を神社へと導いた。
「さあ、この弓を取ってください。この約束を果たすために。」
藤太がその弓を取ると、龍の女は再び大蛇の姿へと戻り、その背に若者を乗せた。大蛇は滑るようにして山の奥深くへと進んでいった。
山の頂には、恐ろしい姿をした巨大なムカデが鎮座していた。その無数の足は大地を揺るがし、鋭い牙は何者をも容赦なく喰らうかのようであった。ムカデは、この山を己の領土として君臨し、誰一人として抗えない存在であったのだ。
ムカデはその長い体をうねらせ、岩を砕きながら藤太と大蛇を見据えた。目は血のように赤く光り、その足は絶えず地を這い、周囲を威嚇していた。風が止み、森が静まり返る。大地そのものがムカデを恐れて息をひそめたかのようだった。
藤太は弓を構えた。矢を一本取り出し、慎重に狙いを定める。ムカデはその動きを見逃さず、素早く体をくねらせて攻撃の隙を狙っていた。藤太は心を落ち着け、深く息を吸い込むと、矢を放った。矢は空を裂き、見事にムカデの足を一本射抜き、へし折った。
ムカデは怒り狂い、唸り声をあげながら若者と大蛇に向かって突進してきた。地面が揺れ、木々がなぎ倒される。藤太は矢を次々と放ったが、ムカデはそのたびに鋭い牙で矢を噛み砕き、迫ってくる。
「ここで屍となることは恐れぬ!我が矢で討ち果たさん!」藤太は叫び、最後の一本となった矢に願いを込めた。その瞬間、龍の女が声を上げた。
「この矢に私の力を授けます!」
矢は光をまとい、輝きを放った。藤太はその矢を引き絞り、全身の力を込めて放った。その矢は光の刃となり、ムカデの胴を貫いた。刹那、ムカデは咆哮をあげ、体をよじりながら崩れ落ちていった。大地が揺れ、やがて静寂が訪れた。山は再び平穏を取り戻した。
龍の女は涙を浮かべながら若者に言った。
「あなた様のおかげで、この山は救われました。どうか、私の城へお越しください。」
若者は湖の底にある美しい城へ案内された。そこには無数の俵が並んでおり、龍の女はその中からいくつもの俵を若者に贈った。
「これはわずかばかりの褒美でございます。どうかお納めください。して、お名前はいかようでございましょうか?」
若者は微笑みながら答えた。
「藤原の藤太。」
龍の女は驚きの声をあげた。
「ああ、俵持ちの藤太様、あなたはあの藤太様でございましたか!」
こうして、若者は持ちきれないほどの俵を抱え、都へ急いだのだった。