多様性とか包括性のお話
結論を先に書きましょう。多様性、包括性は人間の標準的な概念になるべきです。尊重されるべきで、非難されるものではありません。それを前提としてお話します。
アメリカで、黒人、アジア人、ヒスパニックが大学入学や会社の就職で差別されていると社会問題となり、affirmative actionが始まりました。しかし、これは構造的な欠陥を抱えていて当時から問題があると指摘されていました。白人の写真を貼って履歴書を送ると不合格だが、インド系の写真を貼って同じ履歴書を送ると合格だったという有名な話。
差別されている側をパーセントで優遇すると、人間の中身を判断せずに数字で判断することになります。
日本で、女性の議員の割合を5割にしましょうって流れがありますが、これしばらくしたら不具合が出て来ると思います。今現在、大学入試などで女子生徒の倍率が高く、男子生徒の倍率が低くなっている現象が起こっています。これは、「能力の高い女子学生が落とされて、能力の低い男子学生が合格する」ということです。誰がどう考えても、良い傾向ではありません。
stay wokeという運動もありました。理念はいいと思います。ですが、とても排他的で閉鎖的だったのです。バラクオバマ氏も、対話相手に石を投げることは包括性の欠如~みたいな事を以前言っていたような気がします。
仲間だと思っていたマイノリティからもwoke away運動が始まるなど、wokeという活動には問題が多すぎました。
最近だとpolitical correctness、ポリコレが名称としては一般的でしょうか。幅を利かせていますね。言葉の意味としては・・・政治的な正しさ?
看護婦 → 看護師 への言い換えとか、社会への良い影響もたくさんあります。ありますが、行き過ぎてる人もいるんですよね。アファーマティブアクションの時も、ウォーク運動の時も、発生した瞬間はたぶん正常だったはずなんです。活動が大きくなっていくと、なぜか相手を排除しようとし始める。多様性と包括性を、自ら否定し始める。白も黒も上も下も右も左も、全部認めて初めて多様性、包括性なんじゃないのかなって。
全然話変わるんですが、世界史をやってた人間はマルクスレーニン主義の勉強でポリコレって言葉に触れた人多いんじゃないかなって。私も、初めて聞いたときにあれ?これって・・・と思いました。現在のポリコレ勢力が共産思想に侵されているとは思いませんが、源泉は一緒なんじゃないのかな?私の思い過ごしかな?
先日バンダイナムコのBLUE PROTOCOLのサービス終了について触れましたが、バンナムもこういった活動に手を染めていたようです。ポリコレとは言わずにDiversity, Equity and Inclusion長いのでDEIって略すみたいですね。DEI活動に勤しんでいるみたいなんです。いやいや、素晴らしい理念に金を使う前にちゃんと売れる面白いゲームに制作費を投入しろと(笑)
ガンダムエボリューションもサクッとサービス終了してるし、BLUE PROTOCOLも100億垂れ流して死んどるやろがい!世界に展開するためにはDEIが必要?ああそうだね!世界に出る前に日本で死んでりゃ世話ねーぜ!!
アメリカのディズニーが、フロリダ州と喧嘩して特権をはく奪されるというニュースがありましたね。ディズニーはDEI活動部署を廃止するそうです。はっきりいって最近のディズニー新作は駄目駄目でしたからね。別に黒人使ってもヒスパニック使ってもいいんですけど、夢と魔法の国だろ?夢と魔法を見せてくれよ。なんで休みの日に金払ってまで現実問題叩きつけられなきゃいかんのよ。
ここでそもそも論。
少数派を擁護しようというのは、どっから出てきた勢力なのか。という話。ヨーロッパで発明された議会制民主主義を日本もアメリカも取り入れているわけで、そこでの大原則が多数決なわけです。人間は100人集まれば100通りの意見があるわけで、それでは社会が前に進みません。紀元前のヨーロッパの政治家たちは、多数決という手法で社会を前進させる技術を編み出しました。意見の違う者たちが居ることを分かったうえで、それでも人間社会が前進するために多数決を採るのです。
少数派は、意見が通らないことになります。左利き用のハサミは製造されない、目が見えない人用の横断歩道も開発されない。それでは人間社会が前進しているとは言えない。ということで、少数派の意見も聞きましょうとなったわけです。これ自体は良い傾向です。成熟した人間社会では、そうあるべきでしょう。しかし、今現在の日本を見てみると、岸田さんはアッチの意見を聞いてコッチの意見を聞いて、ちっとも前に進みません。
大筋は多数決。しかし、社会インフラとして必要であれば少数意見も、というバランス感覚が政治・企業の指導者に必要です。
果たしてDEI活動は「社会インフラとして必要」なのか。
ダイバーシティとインクルージョンは、意思決定の大原則である多数決よりも価値ある思想なのか。多数決の否定は人間社会の前進の否定です。もう一度、思想の原点、活動の原点を見つめなおすべきなのではないでしょうか。
誤解のないように、最初に書いた結論をもう一回書きますね。多様性、包括性は人間の標準的な概念になるべきです。尊重されるべきで、非難されるものではありません。私が問うているのは思想の原点です。軋轢を生むような活動が枝葉のように増えていませんか?ってことです。
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