[自己紹介]私のネット上でのスタンス

※まず、有料記事に設定しているが全文無料で読める。有料記事にしている理由は後述してある。

全体的に自己紹介というより、自身のネット上でのスタンスの話になった。(ので題名変えた)

ここに自身のスタンスを一つにまとめておけば、とりあえず安心という感じで。全体的に自己防衛が強い


(1)全ての悪意は知らぬが仏


インターネットの使い方、考え方というのを整理したくなっただけ。顔の見えないネット上では誤解も多いと思うからだ。本当は、プロフィール欄に詳しく事情とともに明記できれば誤解が減ると思うのだが、xでもnoteでも自己紹介欄には文字数制限がある。そのため、毎回モヤモヤしていた。

私がネット上で人とかかわりたくない理由は、簡単に言えば「いい人」ぶりたくないからである。なぜなら、本性を出せなくなるから。だから、ネットでは他人と一切会話もしないし交流もしないのである(リアルでは、人と話すのは好きな方ある)。

心理学に「好意の返報性」というものがある。好意の返報性とは、簡単に言えば人から好意を受け取った際に「お返しをしなくては」と感じる心理現象のことである。

例えば、xでいいねを貰ったから、いいねを返しにいくというものが挙げられる。

確かに、いいねを貰ったら、嬉しくて返しに行きたくなってしまうのが人間心理である。

しかし一度でもこれを行ってしまうと、その人とは「顔見知り」になってしまい、その人の目を気にする必要が出てきてしまう。そうすると、ありのままの自分をさらけ出せなくなってしまうのである。毒も吐けないし性癖もかけない。これが私は嫌だった。

そのため、私はブログでもSNSでも、基本的に「通知オフ」というスタンスである。そもそも、いいねを貰ったことに気が付かなければ、好意の返報性も生じないから好意を返さなくても罪悪感がない。つまり、「通知オフ」というのは相手を拒絶しているようで一見感じ悪い印象を与えるが、私の場合は誤解であるという事を理解してほしい。

また、通知オフにしている理由はもう一つある。それは、生産性のない議論や争い、揚げ足取りが嫌いだからである。ただの愚痴ポストにクソリプが来たら面倒である。

通知オフにしていれば、xでクソリプがきても気が付かない。そもそも私はxでは一応全てのポストにリプ制限をかけているが。でも、悪意のある引用ポストをされる場合もある。しかしこれも通知オフにしていれば気が付かない。さらに、私は自分の過去のつぶやき(ポスト)も一切見ないので、なにも気が付かない。

noteも同様である。noteで全ての記事を「有料50000円(返金なし)」にしている理由は実質無料でコメントを閉じることができるからである。noteでコメントを閉じるためにはプレミアムで毎月500円かかる。しかし、実は読者は、有料記事の場合は記事を買わないとコメントをすることができない。また、有料の範囲も自分で決めることができる。

それを逆手にとって、記事の一番最後の文章からを有料にして全文無料で公開することにした。

流石に50000円も払ってわざわざ私の記事に悪意のあるコメントを残すバカはいないだろう。保証はないが。まあ、結局通知オフにしているので、もしされたとしても気が付かないか(笑)

また、xもブログでも、好き勝手つぶやいたり毒も吐いたりしたいため、フォロワーは0に保ちたいと考えている。フォロワーが一人でもいると、気を使って好きなように呟けないから。その人のことを傷つけてしまうかもしれないし。

以前のアカウントでは、フォロワー0を保つため、変なエロ垢や同趣味の方にフォローされるたびにブロック解除をしていた。しかし、それが面倒だった。だから、現在では「なにも把握しない」というスタンスを取っている。つまり、フォロワー数を一切見ないのである。よって、例えもしエロ垢にスパムでフォローされていたとしても私の頭の中では「フォロワー0」なのである。そうすることで気兼ねなく本性を出すことができる。

悪意のある人からフォローが来ても気が付かないし(笑)

このように、私はインターネット上では「全ての悪意は知らぬが仏」というスタンスなのである。そもそも、心理学的には「無反応」というのは相手の悪意をくじく。

これがリアルではそうはいかない。誰かに嫌われたり悪口を言われたりすれば、なんとなく雰囲気で分かってしまう。毎日顔を合わせる職場の人間である場合はなおさら。

しかし、インターネット上なら、わざわざ自分から検索をかけなければ分からないことも多い。実際に悪口を自身が認知していなければ、「悪口を言われていない」のと同じである。しかもネット上でしかなく、リアルな何かに悪影響を及ぼすわけではないから放っておくのが一番である。

このように、私は少なくともこの「人格」では交流しない。しかし、もしいつかネットで人と交流したいという欲求がわいた場合は、「人と交流する用の人格」をこれとは別に作って、別アカウントの別人としてふるまう予定である。こんな自分の本性をさらけ出した「人格」では恥ずかしいから(笑)

また、noteなどのブログ、xなどのSNS等では、他人のためになる情報を発信するつもりはない。なぜなら、もう他の人がとっくにやっているからである。同じテーマで現時点で存在する有益な記事よりも質の良い記事を書けるとも思えないし(笑)

そのため、私が書くのは単なる思考整理や自身の考えや話がほとんどである。もともと「文章を書く」ことが好きなので。よって、わざわざフォローしてまで見る価値はほぼない。むしろ、恥ずかしいので見ないでほしいと思うこともある。

なら、自分のメモアプリにでも書いていればいいと思うだろう。

しかし、「こういう人間もいますよ」ということを一応ネットの海に流すということが目的なので、メモアプリではダメなのである。

いつか誰かの目に止まり、「同じ考えの人がいた!良かった!」「〇〇が好き(嫌い)な人も存在するんだなあ」「自分より下の人間もいるんだなあ良かった」などと安心材料になる可能性もある(笑)

私も、なにか嫌いなものができた時にGoogleで検索をかけて、知恵袋でもnoteでもxでも、偶然同じ感想や考えの人が見つかると嬉しいことがよくあるので(笑)

x(SNS)も同じ使い方しかしていない。前述した「こういう人間もいるんだ」という世間への間接的なアピールのためでもあるし、単に公式リポストキャンペーンに応募するためでもある。

(2)インターネット上の人間関係で大切な「課題の分離」(アドラー心理学)。

課題の分離とは、アドラー心理学の考え方で、「他人の課題に介入しないこと」、そして「自分の課題に他人を介入させないこと」と考える思考法である。 これは、「人間関係のトラブルは、“自分の課題”と“他人の課題”がごちゃまぜになっている状態から引き起こされる」とするアドラー心理学に基づいた考え方。

さきほど、私は誰かからフォローやいいねをあまりされたくないと前述したが、フォローやいいねをするのは「相手の課題」なので、私がコントロールできることではない。そもそも私がそれらをされたくないというのを知らずにしてしまう人もいるだろうから、されたからって私が怒るのも妥当ではない。

私ができることと言えば、せいぜいプロフィールに「フォロー×通知オフ」と書いて通知オフにしておくくらいだろう。これは「自分の課題」であり、自分がコントロールできることである。

xやメルカリでもよくマイルールが多く、相手に強要して守らないと怒る人がいる。例えばメルカリにて、「プロフ必読!と書いたのになぜ読まないで即購入してるんだ!」と怒って勝手にブロックする人間。

勿論これは「課題の分離」を無視していることになる。プロフを読むかどうかは「相手の課題」である。

このように「課題の分離」ができていないと、無駄に人に腹を立てる羽目になり、建設的ではないのだ。無駄な争いや喧嘩も生じる。

だから、私はプロフに「フォロー× 通知オフ」とだけ書いて後は放置しているのである。(1)で前述したように把握しなければ済むから。

(3)見る用のアカウントを別にしている理由


また、見る用のアカウントもきちんと持っている。見る用と書き込む用を分ける理由は大きく2つあり、(1)傷つく心配がない(2)傷つける心配がない、である。

(1)傷つく心配がない

前述したように、ここでの私は「いい人」ぶらない人格である。そのため、誰かを傷つけたり敵に回してしまっていることもあるだろう。そして私をブロックしている人も中にはいるかもしれない。

しかし、前述したが、私はインターネット上では「全ての悪意は知らぬが仏」というスタンスでいる。ブロックされていても、その人のプロフを見に行ったり、反応したりしなければ、ブロックされている事には気が付かない。

特にnoteでは、ブロックされていても相手の記事を読むことはできる。しかしいいねやフォローをすることはできない。もし、この「人格(アカウント)」で「よい!」と感じた記事にいいねしてみて、いいねができなかったら恐らく私は傷つくであろう。

ブロックされていることに気が付いてしまったら、その人に攻撃性をはらんだ気持ちを抱いてしまうと思う。私は割と心が狭いので。

だから、私は、なにもアクションを起こしていないアカウント、つまり誰からも恨まれている可能性の低いアカウントで「見る専門」アカウントとしているのである。xでもなんでも。

(2)傷つける心配がない

特に「人格」を出してしまっているアカウントや、「人間関係」が生じてしまっているアカウントでは誰かを傷つけてしまい、トラブルになる恐れがあると考えるからだ。

単に気が付かなかっただけなのに「あの人のポストにはいいねしたのに私にはしてくれなかった」など、相手を傷つけてしまう可能性がある。xはそういう事例も多くて、面倒に感じてしまった。(現在のxでは誰がいいねしたかは分からなくなっているみたいだが)

だから、xの見る専門アカウントは、私はフォロワー0の鍵垢である。公開アカウントと違っていいねの通知が相手に行かないから。

ましてや、相手を傷つける可能性をなるべく排除するために、私は相手をフォローしないで非公開リストにいれてこっそり見ていることの方が多い。

さらに、私は一切「ブロック機能」を使わない人間である。争いは嫌いなので


(4)「心理カウンセラーラッキー」の考え方


私が尊敬している人は「心理カウンセラーラッキー」というYouTuber、ブロガーである。本名は「ふるいえいじ」さん。出会ったのは、5年前の高校3年生の時であった。

私は実際にこの人に会ったことがあるわけではないが、この人の発信する「考え方」に魅了されてしまったのである。とてもポジティブで実践的、建設的で成熟した考え方だと思う。私も真似したい。

また、私は心理カウンセラーラッキーの動画を見たことがきっかけで、「対人恐怖症、コミュニケーションが苦手」という強いコンプレックスが治ったので感謝もある。

私は、この心理カウンセラーラッキーという人の考え方に基づいていることが多いということが言いたかっただけ。自己紹介の一環として。


最近強く共感しているものは以下の3つである。

(1)「幸せな生き方はこれ!」(趣味を増やしたい!)



現在私は大学4年(2024年12月時点)であり、就職までに趣味を複数作りたいと考えている。就職後の余暇や休日も充実させたいから

趣味というのは親や家族の影響で作られるパターンが多い。趣味の多さとは人とのつながりの多さを表すのだと考えている。内定式の自己紹介で、「趣味=野球観戦」の人が意外にも多く、そこから感じたことだ。

アイドルにハマっていると言ってた女の子も親の影響だと言っていた。皆の話を聞いていて、私は少し悲しくなった。私も、本当はライブとか言ってキャーキャー盛り上がってみたい。そもそも私は、普通周りが知っているアイドルやバンドなどを何も知らない。

私は、小学2年生の時にDVの父親と離婚して母と2人で暮らしてきた。そして、母には特に趣味がない(だから悪口が多いのか)。私には祖父も祖母もいなかったし、一人っ子であるため、影響を受ける人は全くいない。そんな私が唯一ハマれるものと言えば「アニメ」くらいだろう。だから、曲と言ってもアニソンくらいしか知らない。趣味が少ないから、友人も多くない。悪循環だった。

だから、私は卒業までに趣味を増やすことを目標にしている。私のような家族の少ない環境で育ってきた人間は、無理やりにでも趣味を作らないとダメなのである。

最初は興味がないので、なかなか続かないから、タスクの細分化や習慣化力が必要になる。なんだか趣味探しって勉強みたいだな(笑)

具体的には、動画にもあるように「やったことのないことをする」である。
こういうのは勉強と同様、小さなことから始めるのが鉄則である。例えば、音楽アプリの「トレンド」から知らない曲を一日ひとつは聴く、などのように。そこから偶然あるバンドにハマってしまうかもしれない。そう思って、この習慣は始めて見た。

家族という強制力で趣味を増やすことができる人間は心底羨ましい。

動画にもあるように、悪口や論破、誹謗中傷などでドーパミンを出す人間にはなりたくないと感じている。サザエさん症候群。

(2)言葉の重要性

この動画にも最近影響された。そのため、私は、意識的にポジティブな言葉を使う習慣をつけている。時には悪口、不満を言ってしまうこともあるが。

お金や地位があっても必ずしも幸せになれるとは限らない。

「はじめに言葉ありき」なのだから(気分一致効果、認証バイアス)


(3)人間は不完璧な生き物


私も「人間」であるので、機嫌のいい時もあれば悪い時もある。悪口や不満を言うこともある。つい酷いことを言ってしまうこともある。ミスをしてしまうこともある。失言してしまうことも

そんな時ラッキーの言葉、「人間は不完璧な生き物」。人間というのはチンパンジーの遺伝子が99%同じであるらしい。そもそも人間は3大欲求(睡眠欲、食欲、性欲)を満たしたいだけの「動物」である。AIでもなんでもない。

そう考えることで、自分のことも他人のことも許せるようになる。あまり人に期待しすぎないようにしたい。

(5)ネット上の悪意は一切真に受ける必要がない

私もネットで否定的な意見を書くことがあるが、意図としては本人を傷つけたいからではない。単に感情吐き出し(心理学ではエクスプレッシブライティング)でしかない。誹謗中傷と感情吐き出しは違うでしょ(笑)

なので、わざわざコメント欄やリプでアンチコメントを書くことは一切ない。自分のアカウントや媒体でしか書かない。別にアンチをしたいわけではないので

感情吐き出し(エクスプレッシブライティング)は、別に他人を変えようとはしていない。自分がスッキリすればおわり。これなら「建設的かつ悪意性は低い」というテイを保ちながらも、批判的なことを書けるので。


そもそも悪意はほぼ真に受ける価値がない理由を大きく4つ挙げる

(1)シャドウ



心理カウンセラーラッキーの下のブログを読めば分かることだが、「利害関係のない人間への悪意」というのはほぼこれに当てはまる。

例えば、私は人前で泣くのを「禁止」しているので、人前で泣いている人間を見ると同情より嫌悪感がわいてくる。

アニメのキャラ叩きなんてのも、ほぼこれに当てはまる。アニメのキャラなんかに実際に利害関係などないので。

これは、自分の心の中の問題を他人に投影して他人を叩いていることに気がつかない相手の心の中(欲求)の問題。

そのため、相手のシャドウを見抜くことができれば、真に受けることは一切なくなる。むしろ、慈悲の心さえ沸いてくる。

逆に自分が、利害関係のない他人へ悪感情を抱いたときも「自分の心のせい」というテイでの自己表現にすれば、誹謗中傷になりにくい。

誹謗中傷というのは、それができない人間たちによる仕業でしかない。


(2)後知恵バイアス

後知恵バイアスとは、ある事象が起きた後に、あたかもそれを予測していたかのように錯覚する心理現象である。

例えば「あの時こうしていれば良かった」という後悔や「ほらやっぱりな。自分は正しかった」という思考

要するに、自分の判断能力に対する過度の自信のことである。後知恵バイアスの要因は主に「記憶の歪み」「予見可能性の印象」「必然性の印象」の3つだと言われている

後知恵バイアスというのは主にニュースや報道での批判的なコメントに見られる。

例えば、安倍首相狙撃事件での「ボディーガードはもっと素早く判断できたはずだ!そうすれば助かったかもしれないのに」

といったコメント。

このコメントをした人間にも悪気はないのだろうが、自身が後知恵バイアスにかかっていることには恐らく気がついていないことだろう。

「警察は無能だ!」というのも然り。

つまり何を言いたいのかというと、後知恵バイアスという概念を知っているだけで、自分を必要以上に責めることがなくなるということ。

高圧的な上司に「なぜその時判断を間違えたんだ!」とミスを責められても、後知恵バイアスという概念を知っているだけで、平穏を保てる。

このように、ネット上での悪意や批判というのも後知恵バイアスにかかっている人間の戯言でしかないことも多いので、真に受ける必要がないのである。

(3)基本的帰属の錯誤

基本的帰属の錯誤というのは、他人の行動の原因をその人の性格や能力といった内的特性に帰属させ、状況的な要因を過小評価する傾向を指す認知バイアスのこと。

(具体例1)
例えば、遅刻した人間に対して「だらしのない人間だ」と判断してしまう人も多いだろう。状況、環境要因でなく、その人の「性格」要因で捉える。

一方でそのような人も、自分が遅刻したときは「電車が遅延していたから仕方がない」と状況、環境のせいにする。

(具体例2)
募金をした人間に対して、「いい人だ!」と感じることだろう。状況、環境要因でなく、その人の「性格」要因で捉えてしまう。

しかし、単に機嫌が良かったからなだけ(状況、環境要因)かもしれない。

極端にいえば、この募金をした人だって、機嫌が悪いときは家族に八つ当たりしたり、部下にパワハラをしたりしているかもしれないではないか。

実際のその人の「性格」なんて分かるわけがない。

(具体例3)
石破総理が居眠りをしたことに対してネット上では
「人柄は良さそうに見えたけど期待外れ」
「これから国を任せることに心配がある」
「怒りを通り越して情けない」

など叩かれていた。つまり石破総理を「だらしない」「情けない」などと人柄で判断してしまっている。状況、環境要因を無視して。

しかし、その後の石破総理の後日会見の発言「久しぶりに4時間も寝れた」という発言にネット上では
「普通に心配になってきた」

などと手のひら返しをし、擁護する声が上がっている。
このように人間というのは、事情を説明をされないと、相手の環境要因を無視して性格要因で判断してしまう。



つまり、「基本的帰属の錯誤」とは
自分の行動=環境や状況のせい
他人の行動=その人の「人格」のせい

で捉えてしまうバイアスである。他人に「性格のレッテル貼り」をするのである。このような、「他人への性格のレッテル貼り」を真に受ける必要はない。

とはいえ、他人ではなく、あえて自分に対して「性格のレッテル貼り」をするのは別に良いとは思う。

例えば私は、主にネットでは自分のことを「性格が悪い」という「性格のレッテル貼り」をして、ゲインロス効果の「逆効果」のとばっちりを受けないようにしている。

ゲインロス効果というのは、例えば不良がみんなの靴を揃えていただけで褒め称えられたり、いつも自己中心的なジャイアンが映画では「いい奴」扱いされたりするというもの。

そして「逆効果」というのは、しずかちゃんベースな人間が少し毒を見せただけでジャイアン以上に叩かれること。

下の表で言うと映画ジャイアンは「1」、毒吐きしずかちゃんは「4」

ゲインロス効果

しずかちゃんのような「良い人」ベースで生きるのは、時には損で肩身が狭く息苦しくなることを実感したので、やめた。ゲインロス効果の逆効果のとばっちりを受けるのは癪だ

他にも例えば、Xのアカウントでも普段から平和的なポストをしている人は、急に口の悪い愚痴のポストをしにくいものである。

なので最初から「悪者」として愚痴も吐いていれば気楽なのである。そして時には楽しかったことも呟けば、自分の本性(良い面も悪い面も)を臆することなく出すことができる。つまりたまには毒を吐くことも必要なのである。

しかし、このように自分にレッテル貼りすることは良いが、他人をレッテル貼りして決めつけることは正直極力やめたいとは思っている。

他人に対して「性格が悪い」と断定するのもどうかと思う。単に機嫌が悪い、疲れている、心に余裕がないだけかもしれない(状況、環境要因)。

別に、私が他人を一切レッテル貼りをしない完璧な人間とは言っていない。私も人間なので、感情的になれば、してしまうだろう。

例えば感じの悪い店員に不快になったら、「非常識な店員!」とレッテル貼りをしてしまうと思う。でも実は店員は体調が悪いだけかもしれない。忙しくて余裕がないだけかもしれない。

他人へのレッテル貼りというのは、人間の根源的なバイアスなので、やめるのは難しい。そのため、自分がレッテル貼りしているという事実にさえ気がついていれば、良い方であろうと思うことにする。

そして、逆に自分が「お前はこういう人間だ!」と、レッテル貼りで悪意のある非難をされても、「こいつは基本的帰属の錯誤のバイアスにかかっているだけの愚かな人間だな」と心の中で見下し、受け流すことも可能になる。

だから、ネット上での悪意は真に受ける必要がない、という大見出しの中にこの「基本的帰属の錯誤」という項目を入れたのである。


ちなみに私は、

「在日韓国人は~」「クルド人は~」「中国人は~」「女(男)は~」「専業主婦は~」「一人っ子は~」「片親は~」「(血液型)△型の人は~」「mbit△型の人は~」「最近の若者は~」

というレッテル貼りをも嫌いである。これこそがナショナリズムの根源だろう。個々を見失うのは恐ろしい。

これらは、前述した基本的帰属の錯誤の他、確証バイアス、ピグマリオン効果など複雑な心理要素が混沌としているだけである。

確証バイアスとは
自分の思い込みや願望を強化する情報に注目し、そうではない情報は軽視してしまう傾向のこと。

例えば、血液型と性格の関係について、相手の血液型がA型だとわかると、一般的によく言われる特徴である「A型は真面目で几帳面」という情報にばかり目がいき、他の情報が見えなくなってしまう。その人だって人間なのだから、だらしない一面もあるはずなのに、無視してしまう。人間は自分に都合の良い情報以外は排除する。

ピグマリオン効果とは
他者から期待されると、その期待に沿った成果を出す傾向にある心理効果である。先ほどの血液型でいえば、一般的には「A型は真面目で几帳面」と言われすぎている。そのため、A型の人間は本当に真面目で几帳面な性格になっていくのである。

このように、レッテル貼りというのは偏見や争いを生むだけで無意味なのである。嫌なレッテル貼りをされた場合は、むしろ相手を慈悲の心で見てあげればよい。

まあ、レッテル貼りをする人間の気持ちも理解はできるが。特定の人間に酷いことをされれば、その人間の特徴を抽出して、主語をでかくして全て非難したくなってしまうのも人情だろう。信頼していた旦那に浮気されれば、男叩きの一つもしたくなる気持ちも分かる。靖国神社に尿をかける中国人のニュースを見たら、中国人を一括りにして非難したくなる気持ちも分かる。

でも、それを真に受ける必要はないと言うこと。別に男が全員浮気するわけではない。中国人みんなが反日なわけではない。一部の人間を見てすべてを一括りにして断定することで感情を発散させているだけ。

だから、悪意のある主語の大きさに巻き込まれて傷ついたら、「可哀想」と慈悲の心で見てあげればよい。レスバトルほど無駄なものはない。

長くなったが、以上のようにネット上での悪意は、「基本的帰属の錯誤」バイアスにかかっている人間の戯言でしかないことも多いので真に受ける必要はない。

これが言いたかっただけ。

(4)性格は遺伝と環境の集大成

これは、(3)の基本的帰属の錯誤の延長の話だが、

例えば、感情コントロールができない人間のことを「幼稚!」とレッテル貼りをする人は多いと思う。

しかし、「お前が感情コントロールという技術を持っているのだって、単に運が良かったからなだけかもしれないじゃないか」、という話。

大量のストレスホルモンは、脳の発達を遅らせることが分かっている。子ども時代の虐待は、扁桃体を過剰に興奮させ、大量の副腎皮質ステロイドにさらさせる。その結果、脳の発達にダメージを与えるのである。

・暴言に晒された子供は、聴覚野の白質経路皮質容積が減少したり、コミュニケーションで重要な左上側頭回の容積も減少させる。脳がこれ以上暴言を聞きたくなくて、あえて容積を減少させたのかもしれない。

このように悲しいことだが、辛い経験をすることで脳が適応していくのだろう。

・性的暴力を受けた子供は、紡錘状回の容積が減少する。

・厳格体罰に晒された子供は、感情コントロールなどを司る内側全島皮質の容積が減少する

このように、感情コントロールが苦手な大人は、もしかしたら厳格体罰をされて育ったのかもしれないし、コミュニケーションが苦手な大人は、親から暴言を受けて育ったのかもしれない。

何事にも理由があるのである。背景を鑑みず、相手の性格をレッテル張りするのはなかなか非情なことである。

自分は虐待も受けず苦労もせずぬくぬくと育った「運の良い人間」なだけなのに、「運が悪い人間」のことを「感情コントロールのできない幼稚な人間だ」と見下すのは実はお門違いなのである。

お前が「良い」脳の構造を完成できたのは、たまたま運が良かっただけだろ。別にお前がすごいわけではないので偉そうにするな」と。

発達障害という「レッテル」を貼ってくれればまだ生きやすいが、このようなそこまで生活に支障のないグレーな脳を持って育った人間は、不名誉なレッテルを貼られておしまいである。

長くなりすぎたが、この大見出しは「(5)ネットの悪意は一切真に受ける必要がない」であり、これがこの章の趣旨。


とはいえ、全てを遺伝や環境のせいにするのも建設的ではないので好きではない。

あくまで、他人の悪意のある意見を真に受ける必要がないという話なので。

むしろ、全てを自分のせいにすることで、人生はラクに生きられる。過去も他人も変えられない。

課題の分離でもそうだが、自分がコントロールできることに注目して生きるのが精神衛生上一番だと考える。


(6)自己防衛のための悪口

私は、SNSという独り言ツール等で、現実に関わっている人間のことを毒づいたり、悪口を言ったりする。心の中でも、ニコニコしながら毒づいていたりする。

私がこのように心の中で毒づくのは、ただの愚痴や不満の発散だけではない。それは、自分を守るための鎧みたいなもの。人間は裏切る生き物だと知っているから、信じることで傷つかないようにするための自己防衛なのである。

誰かを心から信じることは確かに温かい。でも、その温かさが突然冷たくなる瞬間の痛みを、私は何度も見てきた。友達だと思っていた人が裏で悪口を言っていたとか、恋人がいつの間にか違う誰かを見ていたとか、そんなことが日常茶飯事で起こる。だから私は、心のどこかで常に「この人も裏では何か違う顔を持っているのかもしれない」と思ってしまう。そう思うことで、万が一裏切られた時のダメージを最小限に抑えられるから。

(1)他人に絶対的な好意を向けるのは馬鹿馬鹿しい

他人に絶対的な好意を向けるのは苦手。「現在の」好感度が高いかどうかなどは言えるけど、ずっとその人を好きだと信者のような発言は無理

アイドルや歌手、漫画家だって、表面的にはファンを大切にしているように見えても、実は「金のなる木」程度にしか思ってない人もいる。中には、モラハラや不倫騒動を起こすような人もいるというのに。

職場や学校で好感を持っている人間だって、裏で自分のことを悪く言っている可能性もある

正直、なにかの盲目的な信者になれる人が羨ましい。それがなにかの漫画であろうと、アイドルであろうと。私は、傷つくのを恐れて、そのような絶対的な好意を他人に向けることが苦手だから。

(2)他人に心から同情するのは馬鹿馬鹿しい


同情についても同じだ。可哀そうだと思うことは、その人を「被害者」として認識することだと思う。でも、被害者が全くの無垢であるとは限らない。いじめられた人が、別の場面では誰かをいじめていたり、善人に見える人が、自分に都合の悪い部分を隠していることもある。そんな事実を知ってしまうと、一方的に「可哀そう」と思うのは、どこか浅はかな行為のように感じられる。

具体例が上手く出てこないので、この混血のカレコレの動画がよい例だと思った。浮気された彼氏は視聴者から同情されるが、裏側を見れば、同情するのも馬鹿馬鹿しくなる。

もっと酷いケースでは、同情したばかりに自分が逆に傷つくということもある。


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だから私は、表面では愛想よく振る舞いつつ、心の中で距離を保つ。それは冷たいわけじゃない。ただ、自分が傷つかないようにするための、私なりの生き方。

なので、私は「今のところは何の非もない人間」をネット上で悪く言うことがある。

でも一般的には、はたから見たら、(今のところは)何の非もない人間を悪く言っている私が「悪者」になるだろう。多くの人は、まさか私が自己防衛のすぎる人間であることなど一ミリも想像がつかず、「悪者」認定すると思う(笑)

本当は、こんなことをしない「感謝体質」になりたい。心理カウンセラーラッキーもそれを推奨している。でも、この癖だけはどうしても抜けない。




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