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社員と共に100年ビジョンの実現へ/メトロ設計株式会社/小林一雄

ボーダレスキャリアがこれまで出会った若者応援企業のインタビュー記事、今回はメトロ設計株式会社代表の小林さんにお話を伺いました。


メトロ設計株式会社の紹介

メトロ設計のスタッフの皆さん

メトロ設計株式会社は、1964年に現代表の小林一雄さんの祖父が創業した会社です。建設コンサルタントとして、都市インフラに関する無電柱化、道路、上下水道、地下鉄などの地下インフラの整備に携わってきました。小林さんは5代目として2008年に事業を承継し、そこから新しいことにどんどんチャレンジしてきました。2014年からは地域社会との共生を意識した取り組みもスタートし、自社ビルのリノベーションプロジェクトはその象徴です。1階のイベントスペース「SOOO dramatic!」や、2階のシェアアトリエ「reboot」、4階の創業支援施設「ベンチャーステージ上野」は、地域住民やクリエイター、起業家が集う場所として、都市の課題解決と地域活性化に貢献しています。「良い仕事は良い家庭から、良い仕事は良い職場から」というお父様の志を受け継ぎ、働くメンバーが自分の仕事に誇りを持ち、「未来環境を創る仲間」として共に成長できる企業を目指しています。

少年の夢、未来の車をつくりたい

―こんにちは。本日はよろしくお願いいたします。では、最初に小林さんの幼少期について伺えますか?

よろしくお願いします。メトロ設計の小林一雄です。僕のルーツはドラえもんとかのアニメですね。アニメの世界に出てくる宇宙や未来を感じさせるものに憧れがありました。小学校の頃にスペースシャトルに燃料電池が使われていると知り、「こんなクリーンなエネルギーがあるんだ」と非常に感銘を受けて、自分もこういったものを開発するエンジニアになりたいなというのが夢でしたね。

―素敵な夢ですね。その後はどんな学生時代を過ごされたのですか?

僕らの時代はベビーブームで、周りは小学校から受験をする家庭が多かったです。それで僕も受験のために学習塾に通い始めたのですが、そこで悪友と出会ったんです。当時はゲームセンターで体感ゲームというのが流行っていて、塾は上野にあったのですが、アメ横にあるゲームセンターにその悪友と毎日のように通ってましたね。塾の前にゲーセン行って、終わった後もまた行ってといった感じでした。それと父は土日も仕事で家にいないことが多かったので、祖父母がよく映画に連れっていってくれたんです。それで私も映画が好きになりまして、悪友とゲーセンや映画館に入り浸ってました。そんな環境なので勉強に集中できるはずもなく、当然受験は失敗しました(笑)。

―そうだったのですね。ご家族の話をもう少し伺ってもいいですか?

もちろんです。僕の父は土木の設計技術者で、子供の頃に父が帰ってきて抱っこされると、図面の匂いがしてましたね。昔の青焼の図面ってわかります?昔はアンモニアで印画紙に焼き付けて図面をコピーしていたんです。図面のアンモニアの匂いが子どもの頃の思い出ですね。僕には妹がいるんですけど、よく父が家で描いていた図面のハッチング箇所の色塗りする作業を兄妹で手伝わされてもいたので子供の頃から図面には馴染みがありましたね。


それと父は車が好きだったんです。家族で出かける時は大抵車で遠くまでドライブに行くんです。当時は車にエアコンはないですから、夏の暑い日に渋滞にハマると辛いんですよ。そこで買ってもらったアイスキャンディーを妹と二人で食べていたのを思い出しますね。そうやって父がいろんな所に車で連れて行ってくれたこともあり、私も車が大好きになりました。そしていつしか、空飛ぶ車じゃないですけど、未来の車を作りたいと考えるようになったんです。

自動車会社に就職、ところが…

―なるほど。そこからどんな道に進まれたのですか?

子どもの生活パターンなんてそう簡単に変わるもんじゃないじゃないですか?その後も暇を見つけてはゲーセンと映画館に通うという生活で、結果的に中学受験も高校受験も失敗しました。目指していた私立は全滅でなんとか都立の高校に引っかかり入学することができました。ただ、またしてもと言うか、当時ハスラーという映画などもあり、ビリヤードが大ブームの時代でして、部活も入ってなかった僕は、当然のように同級生とかっぱ橋にあるプールバーに通うようになりました。そうするともう予想つくと思いますけど、当然大学受験も失敗。でもその時に小、中、高校と塾に通わせてもらってなにも成果出せてないのは、さすがにまずいなと。ここは「未来の車を作る」という夢に向かって進もう、初志貫徹だと気合を入れ直しました。当時、武蔵工業大学では水素自動車が、慶応義塾大学は電気自動車の研究をしていることを知っていたので「よし、慶應に入るぞ」と決めて一浪して慶応の理工学部の機械工学科に入りました。

―過去の失敗から学び結果を出したのですね。大学卒業後はどうされたのですか?

もちろん就職先は自動車会社を目指しました。ホンダが好きだったので第一志望はホンダ自動車です。しかし、僕が卒業の時はバブルが崩壊して就職氷河期と言われていた時代で、普通車メーカーは大学院卒か博士課程じゃないと書類も受け付けてくれない状況でした。普通車メーカーは諦めて、就職課の先生に泣きついて「なんとか自動車会社に就職できないか」と相談して紹介されたのが、「トントン、トントン、日野の2トン(t)」というCMもやっていたトラックを製造している日野自動車でした。

入社後に配属されたのが、3次元CADで新しいトラックのエンジンを開発するというプロジェクトでした。エンジンをCADで設計して出力し、製造部門の工場のスタッフとやり取りしながら、「この面はもうちょっとフラットにしないと加工しにくい」とか「この角度だと鋳物の型から抜けない」とかやり取りしながら設計を進めていくんです。これはこれで非常に面白かったんですけど、時はトラック不況の時代になってまして、当時の社長が考えたことは、日本ではトラック売れないんで海外にシフトするという方針でした。それで開発チームのメンバーは、全員が海外用の車両を設計するチームに配属すると言われて、「これは自分がやりたい未来の車」とは違うと思い退職して、父が社長をしていたメトロ設計に入りました。

メトロ設計代表の小林一雄さん

―メトロ設計に入られてからは最初どのようなことをされたのですか?

僕がこのタイミングでメトロ設計に戻ってきた理由の1つでもあるのですが、土木業界は2次元CADが主流だったのが、建設省がCADデータを使って 情報を統合していくプロジェクトを始めたんです。そうなると、土木業界も3次元CADへの対応が必要になってくる。そこで自分のこれまでの経験や知識で会社に貢献できると考えていました。その土台づくりとして最初に情報システムの整備から始めました。システム関係のことを行う組織を作り、会社のパソコンのOSとサーバーを全てWindowsに切り替えたり、国交省とデータをやり取りするために直接通信回線を結べるようにしたり、土木計算プログラムの開発もやりましたね。

ただ、僕は自動車メーカーで製造のことは学んだのですが、土木のことは専門じゃない。いずれ会社を継ぐにあたって、土木のことを知らない自分に社長が務まるのかと考えるようになりました。それで、当時顧問でいらしていた土木を専門にしている大学の教授に相談したら、これからはマネジメントが重要になってくるから、経営者はマネジメントの勉強をちゃんとした方がいいとアドバイスをもらいました。それを聞いてMBAを取ろうと決めて、母校だった慶応のビジネススクールに2年間働きながら通ってMBAを取得しました。

運命を変える自社ビル購入

―今の自社ビルを購入する際にも様々なことがあったそうですが詳しいお話を聞いてもいいですか?

僕がそのビジネススクールに通ってた時にですね、父が会社のメインバンクから「ビルを買わないか?」と勧められまして、そしたら父から「お前、ビジネススクールで勉強してんだから、このビルを買うべきか判断しろ」と宿題を与えられました。そこで情報としてもらった経営計画には、売上は右肩上がりになるとあり、「この計画だったらテナント料を払うより、買った方がいい」と判断して父に伝え、その後父は今の自社ビルを購入しました。

ところが、よくよく外部環境などを調べてみると、国交省が毎年公共事業は2%ずつ削減するとしていることが分かったんです。当時は外部環境なんて言葉も知らず、 父からの経営計画だけで物事考えてしまっていました。メトロ設計は当時、9割以上が公共事業に依存していたので、この外部環境の変化の影響はかなり大きかった。さらに公共事業は縮小していくのに、競合事業者がどんどん増加してるというのも分かった。なぜそうなったかというと、大手企業が自社の公共事業部門の社員をどんどんリストラしていたんです。それでリストラされた人たちは、自分で会社を立ち上げて業界に参入してきていた。そこで新規参入した会社が公共事業の入札価格をありえないぐらい安い価格で受注したり、ダンピングも横行して、入札価格が以前の2割、3割の価格が当たり前という世界になってしまったんです。こうなると公共事業に依存していた自社の経営は悪化、右肩下がりで売上も落ちていきました。

さらに悪いことは立て続けに起こりまして、自社ビルの1階から5階をテナントとして借りてくれていた専門学校が倒産してしまうんです。学校法人の場合は、文科省からの指導で倒産時点で在学している生徒が卒業するまでは学校の運営は続けないといけない。だから、うちとしては家賃収入はないけど出ていってもらうことができないという状況で、これもかなり経営を圧迫しました。売上も良かった時の3分の1ぐらいまで下がり、そこへビル購入で背負った借金の返済が始まり、もうどうにも首が回らなくなってしまいました。

苦しい、悔しい、資金繰りの辛さ

―大変な状況ですね…

そこからの私の仕事は、資金繰りになりました。会社がお金を借りていた金融機関を父と二人で回って、返済を遅らせてもらえないかと頭を下げてお願いする日々。ある銀行の支店長からは、「社長、我々を騙してたんですか?!会社たたんで、従業員を全員クビにして、0からやり直したらどうですか。」と言われたり、別の銀行からは、「もう新たにお金は貸せません。今後は支店じゃなくて、債権回収会社が窓口になりますので。」と言われたり、業績が良い時には良好な関係だったのに、悪くなった途端に手のひら返し、あの時は本当に悔しい思いをしました。そんな中でも、信用金庫は交渉に乗ってくれましたし、ビジネススクール時代の同級生に経営コンサルティングしている人や銀行員もいたので、色々と相談に乗ってもらいました。結果的には、元金ゼロで利息分だけを返す形になんとかできて、それを数年間続けました。

―その状況をどうやって乗り越えたのですか?

その後、倒産した学校がやっと退去してくれて、1階から5階を貸せるようになりました。2004年のことです。そのタイミングでビジネススクールの同級生だった若山さんがブレイクポイント株式会社を起業したんです。彼は元々商社で働いていてその時に新規事業を立ち上げる仕事をずっとやっていたんです。そこでの自分の経験を活かして、日本の企業家を育てるインキベーションという仕事をしたいと会社を立ち上げました。

彼に話を聞いてみると、日本の起業家を増やしたいんだけど、オフィスを借りるのに敷金、礼金、仲介手数料で相当なお金が必要(2004年当時)で、これが起業時にぶつかるハードルの1つになっている。起業しても自分の事業に投資するんじゃなくて、不動産借りるだけで莫大な投資が必要になる。だから、起業する人が安く借りられるオフィスを作りたいとのことでした。

この話を聞いて閃きました。一つのテナントに貸していたせいで痛い目にあった経験をしたので、複数に貸すことでリスクは分散できるし、坪単価あたりの賃料も高く設定できる。満室にできれば普通のテナントに貸すより多くの収入が入るビジネスモデルになると。そして彼と「一緒にやろう」ということになり、2004年にスタートしたのが、「ベンチャーステージ上野」という新たに起業する人向けのシェアオフィス事業です。


人との出会いと自社ビル活用でピンチをチャンスに

―そこからは順調にいったのですか?

いえいえまだです。シェアオフィス事業だけでは安定経営には程遠い、その後もどうして行こうか悩みました。自社ビルを売ろうと考えたこともありました。それで不動産鑑定に出したら「このビルは、一般の市場では売ることはできません。」と言われてしまい、かなり驚きましたが、「もう売れないんだったら、意地でも活用するしかない」と覚悟が決まりました。耐震補強の工事を行うことを決めて着手。この間家賃収入が入ってこないのはキツいので、工事中でもできることはないかと台東区の地図を眺めながらインターネットで検索していると、 古いビルや建物を再生してる人がいるという記事を見つけました。台東区にもそんな人いないかなとさらに調べてみると、なんと浅草にいたんです。それがまちづくり会社ドラマチックさん。興奮してすぐに会いにいきました。

―お会いしてみてどうだったのですか?

ドラマチックの代表の今村さんは、古い建物や昔から地域にある産業や文化に着目して、それを現代にも伝わる形に再生してまちづくりを行なっている方です。古いビルを小さく間仕切り、クリエイターさんに貸して、内装も自由に変えて良いとすると、自分たちでいろんな創意工夫するんですね。最初は汚いオンボロビルだったのが、壁塗ったりとか絵を描いたりなどして、年々アート作品のように変化していく。他にも浅草で革製品づくりのイベントを行い工場見学をできるようにすることで、職人さんと一般の人が関われる場を作ったりと様々な活動をしていました。

シェアアトリエ「reboot」

彼が言うには、実は台東区は、クリエイターさんが非常に多い町でもの作りをする場所を探してる人が結構多いんだけど、貸してくれるところがないとのことでした。音とか匂いとかも出るので貸してくれる人は少ないそうです。そこで、 そういう人たち向けにシェアアトリエをやるのはどうでしょうと提案を受けました。

うちとしては、どうせビルは工事中で音とか匂いが出るので、作品作りの際に音や匂いがするのは全く問題ない、早速やってみようとスタート。するとこのエリアは芸大も多いということも分かり、学生さんもアトリエとして利用してもらえるようになりました。その後も利用者が順調に増え、産業も街も再起動を目指すという意味を込めて名付けたシェアアトリエ「reboot」として正式にスタートさせました。さらには、1階は「ワクワクみつかる、現代の公民館」をコンセプトとしたイベントスペース「SOOO dramatic !」に、今では、地域の方が気軽に集い文化活動を楽しめる場になっています。


経営への向き合い方

―経営理念について、その背景や思いを伺えますか?

自社ビルの活用事業はテナント収入も安定してきて会社の売上も徐々に回復していきました。僕としては会社を守るためにこの自社ビルの不動産事業を早く軌道に乗せないとと一生懸命やっていたわけですよ。1階のイベントスペースが立ち上がった頃は、毎週のように自分たちでイベントをしていましたね。ところが、社員と個人面談してる時に「社長が会社をどうしていきたいのか見えない」「会社の方針がわからない」と言われるようになり、若手の社員が将来の不安を理由にどんどん退職していったんですよ。

1階のイベントスペースでは様々なイベントを開催

「社長は毎週なんか楽しそうなことやっていて、僕らだけ仕事をやらされてる」「何をしたいのかが分からない」と感じていたようなんです。会社を守るためにこれだけ一生懸命やっているのになんで分かってもらえないんだ…とモヤモヤしてた時に、中小企業家同友会という経営者団体に出会い、経営理念の重要性を学びました。そこから研修なども受けながら社員も巻き込みながら作ったのが今の経営理念です。

―なるほど経営理念ができるまでにそんな背景があったのですね。

そうなんです。当社の経営理念は3つの柱で構成されています。1つ目は「未来環境を創る仲間」我々がやってる社会インフラ事業は税金で作られているものが多いんですけど、その税金を払っているのは地域の方たちです。だからこそ、この町が活性化していかないと自分たちの仕事もなくなるし、何より自分たちの町が衰退していくのを見るのは嫌じゃないですか。だからこそ、まちづくりは我々の仕事だよねという思いを込めています。2つ目は、「技術を未来につなげる仲間」創業者である祖父は、次の世代にノウハウや技術をつなげていく為にこの会社を立ち上げました。そんな祖父の思いを受け継いでいます。3つ目は、「学び合い共に成長する仲間」一人ひとりが自分の行動を振り返り、会社やそれぞれの夢と幸せの実現をめざし、全社員、取引先、お客様、地域の住民の方々がお互いに学び合い共に成長していくことをめざしています。

100年ビジョンとこれからのメトロ設計

100年後の東京のイメージ

―最後に将来の展望をお聞かせください。

おかげさまで会社は創業から60年を迎えることができました。ここまで会社を共に支えてくれた社員の皆さんには本当に感謝しています。だからこそ、働く環境の整備や福利厚生を整えたりなど、社員が働きやすい環境づくりにはかなり力を入れています。障害者雇用にも取り組んでいて、様々な人が働き活躍できる会社にしたいと考えています。それと100年ビジョンの実現ですね。

―100年先のビジョンを策定しているのですか?

そうです。なんで100年ビジョンとしているかというと、うちがやっているインフラ事業の場合は、今設計してる仕事が形になるのが10年後なんですよ。なので、「10年後のワクワクした未来を描こう」と言っても、今自分が設計している図面が形になっているだけで、それだと全然未来がワクワクしないじゃないですか。「じゃあ100年先を描こう」ってことで100年ビジョンができました。例えば、30年以内に首都直下型地震が7割の確立で起きると言われています。じゃあその地震が起きた後の復興したまちをどうするかというのもビジョンには含まれています。あとはやっぱり私が小さい頃に憧れていた宇宙ですね。人間が宇宙にも住めるようになったら、宇宙につくるまちのインフラは我々がやりたいと考えています。

宇宙の地下インフラのイメージ

―確かにワクワクしますね!ぜひ実現してくださいね!本日はありがとうございました。


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