見出し画像

さざんかプロジェクト冬の授業研究会

 さざんかプロジェクト冬の授業研究会があった。12月27日である。さざんかプロジェクトは、卒業・修了生の集まりだ。8年目だろうか。お子さんが生まれた教員も多く、細々と、でも、絶えないように続いている。彼らにとっては、いつでも戻ってくることができる場所だからである。

 「わすれてもだいじょうぶ」という単元の算数授業を検討した。教科書の問題で示すと、「文ぼう具店で同じねだんのノートを6さつ買い、そのあとスーパーに行って100円のお茶を1本買いました。ノートとお茶の代金は、全部で940円でした。ノート1さつのねだんは何円ですか。」というものである。

 「ノート1冊のねだんをわすれてしまいました。いくらだったかな。」と、条件不足の問題を提示し、ノート1冊のねだんを予想したり、ノートは6冊買ったことを確認したり、ノートだけでなくお茶を買ったことやお茶のねだんを子どもたちが先生から聞きだしたり、子どもたちが質問することで具体的な問題のイメージを共有しつつ、「これだけでノート1冊のねだんは求められる?」と子どもたちに投げかけた導入の工夫があった。全員が問題に取り組めるよう、工夫したのである。

 でも、実際の授業は、
 750-150=600
 600÷6=100
 と答えと答えに至る式が示され、それでもわからない子どもからは質問が出ない授業となってしまった。だから、「なぜ、そうなってしまったのか」を参加者と考えた。

 話題となったのは、「発問」のベクトルである。ここで言う「発問」は、教師が子どもに問いかける質問ではなく、子どもがほかの人の考えを聴いてみたくなる問いのことである。「これだけでノート1冊のねだんは求められる?」は、正解した子どもにとっても、ほかの人の考えを聴いてみたくなる問いではない。この場合は、この問題は、正答と無回答に分かれるので、「無回答の人は、何がわからないのかな?」が、正解が導ける子どもにとっても、「無回答の子どもがわかるように何を説明しないとならないのか」は、ほかの子どもの考えも聴きたくなるのではないかと考えたのである。この問いであったら、式と答えだけではなく、式にある600円とは何かを説明したり、2つの式にある解き方の手順と意味を関係図を使って子どもたちは示そうとするのではないかと思えたのである。

 子どもと確認した問いが、誰に向かっているのか。誰と誰とが対話するようになるのか。そうしたベクトルを意識して発問を考えることが大事ではないかということを共有した学びとなった。

いいなと思ったら応援しよう!