見出し画像

日々読書‐教育実践に深く測り合えるために

【図書紹介】西條昭男『心ってこんなに動くんだ』新日本出版社、2006年。 
 
 5年生の教室で、始業式の日、「今、思っていることや言いたいことや聞きたいことを書いてほしい。もちろん、何を書いてもいい」。こう言って担任の西條さんは、クラス全員の子どもたちに小さな紙を渡します。「ほんまに何書いてもいいんか」としつこいほど繰り返した翔太が持ってきた紙には、
 
  今、目の前に
  へんなじじいがいる
 
と書いてあったそうです。茶髪で小柄な翔太は、けんかをしたり、運動場から逃げて帰ったりと、担任になる前から名前と顔を覚えているような子どもです。相手の気持ちも考えずに、自分の世界から一方的に発信するので、友だち関係はぎこちなく、話題から外れた発言をすることもあり、友だちからはじかれたこともあります。でも、小さなトラブルを繰り返し、保護者とも何度か話し合うなど紆余曲折がありながら、クラスの話し合いの中で、翔太の気持ちを代弁する子やいっしょに遊ぶ子らが出てきて、翔太の顔は和らいでいきます。二学期には、放課後に誘い合って自転車に乗って遊びに行く友だちが四、五人できたそうです。

 七五調の短詩づくりの国語の時間、翔太は「友だちができて、うれしいな」とだけ書いて、西條さんに持ってきました。「うーん、それできみはどうなんや。あと一行だけ書いてきて。」最後に何かひとりごとを書き加えようと指示するのです。しばらくして、翔太が「これ」と示したのは、次のような詩だったそうです。
 
  友達ができて うれしいな
  ぼくのこころは 遊園地
 
 子どもにとって、一緒に話したり、遊んだりする友だちがいることはどんなにうれしいことか。私たちおとなの想像をはるかに超えるものがあると、西條さんは指摘します。作文や詩や日記は、教師が子どもに教えられて、人間としてどう生きるかを学ぶものなのです。
 
  うんてい
                  二年 みほ
  うんていで、一だんぬかしが いっぱいできた。
さいごの五本ぐらい 一だんぬかし。
手がへんだった。
ぜんぶいけた。
うれし。
足がゆれてた。
めいちゃんの声がきこえた。
しょう子ちゃんの声もきこえた。
  「がんばりや。」
 
 みほさんは、友だちの「がんばりや」の声を受けながら、「うんてい」をがんばり抜きます。どこの学校でも見かけられる光景です。できたという喜びと達成感は、書くことで、より大きな確かなものになり、友だちの励ましの声もいっそう耳に残り心に刻まれていきます。また、それをクラスで読み合うことで、一人の喜びをクラスの子どもたちが共有し、「がんばりや」の声かけがクラス中に広がっていきます。この詩の読んだ後の休み時間は、子どもたちがわあと運動場の「うんてい」に並び、子どもたちが声を掛け合い、「先生、できはった!」と子どもたちのがんばる勢いに弾みがついたと西條さんは言います。子どもたちは、励まし励まされ、声をかけあいながら育っていきます。励まし励まされる事実、そうした生活を積み上げ、それを文章化して胸に刻むことが確かな人間を育てていくというのです。子どもたちが自分を語り始める。語るべき自分を深め、受け止めてくれる他者を自分の中に取り込みながら人間は成長していきます。

 大勢の子どもたちを前にして、明るく楽しい子ども、素直で元気な子ども、乱暴な子ども、しらけている子どもなど、いろいろな子どもがいると並列的に見ていたのでは、子どもを理解したことにはなりません。明るく元気に見える子どもたちもさまざまな悩みを抱えながら生きているように、突っぱったり、乱暴な行為を繰り返している子どもたちも、切ないねがいを内に秘めて生きています。「書くこと」と「生きること」とをつないで考える。書くことは生きることである。うれしかったことをうれしかったと書き、悲しかったことを悲しいと書き、寂しかったことを寂しかったと書く。この行為は、生きている真実をさらに深く耕し、よりよく生きたいと願うことです。このことが書くことの本質であり、書くことがその子にとってどんな意味があるのかという本質的な視点を大切にすることなのです。

 子どもたちは、いつも心の中にしまい込んで見せないもの、ふっと言葉に出してみるときがあります。そこからその子と対話が始まることもあり、その子の悩みや願いに思いを寄せることができます。しかし、それは見せろ見せろと迫るものではなく、やはり、見せたくなる、聞いてほしくなる、心の動きがあればこそであり、どのようときに子どもたちがそのようなメッセージを届けたくなるのか、それを深く考えつづけることが大事なります。

 一つには、子どもにとって自分はどんな存在として映っているのか、子どもの側に立って、自分を想像してみることが大切だと指摘されています。教員の面をかぶった者としか子どもの目に映っていないとしたら、子どもは決して自分の素顔は見せないし、心を開かない。面の中に柔らかい人間の顔があるかないかは子どもたちが見抜きます。西條さんは、朝の会で自分の子どもの頃の話を子どもたちにすると言います。寝小便の話、近所の池でうなぎをとった話、さかあがりができた話、立派な話ではなく、失敗談や子ども心に忘れられないことを話すと言います。子どもたちからどうまなざされているのか。子どもから見た教師と子どもの関係を自覚することが重要だということです。

 二つには、「あれも書きなさい」「あのことも書きなさい」と言わないことだと指摘します。詩や作文は、楽しく遊ばせることだと言います。だから、子どもの書いたものをほめればいいかいうと、そうではないと西條さんは言います。さらに、西條さんは、「最後になにかひとりごとを書いておいで」とひとりごとを言ったり、対象に話しかけたりするよう書いたりと指示をすることがあります。そのさい、大切なのは、「一行書いてほしい」と言ったからには、子どもに任せることだと注意を促します。ああではないか、こうだろうといろいろと子どもに指導という名の助言を迫らないというのです。迫れば、子どもは教師の意図するところを懸命に探して、それに見合うように表現しようとするからです。作品の形を仕上げるのではなく、あくまでも子どもの内にあるものを引き出すことを忘れてはならないというのです。

 三つには、子どもの生活には、立ち止まりどころがあると指摘します。作文や詩には、書くための「とき」がある。学力競争や友だちへの気遣いに神経をすり減らしたり、心に様々な傷を負っている子どもたちにも、「心がゆったりしたり」「ほっと温かくなったり」「何だかやさしい気分になったりする」ときがある。それは、人間性回復の「とき」であり、人間らしさの充電の「とき」である。子どもたちがそんなときを過去と現在から探すことや見つけることは、子どもにとって意味ある精神活動ではないか。教師にとっても、日常の言動からはうかがうことのできない子どもの生活や思いにふれる「子ども発見」になるのではないか、というのです。たとえば、クラスの子どもが転校するとき、お別れの手紙を書いて手渡すだけでなく、少し経って去って行った友だちが向こうの学校で今どうしているかと想像し、心を巡らせ書く。子どもたちは相手を思いやる優しい心を持ちましょうと何度も聞かされ、相手を思いやることが大切だと言葉では知っている。しかし、相手を思いやるには、立ち止まり、思いやる空間と時間が必要になるというのです。

 私に大きな影響を与えている書籍です。図書館にあるといいなあ。

いいなと思ったら応援しよう!