広がり続けるホームレス収容施設(前編) ―反貧困運動は「貧困ビジネス」廃絶に向け闘うべきだー(岩本菜々)
はじめに 「福祉に頼るのは……」
「福祉に頼るのは、死ぬ前か死んでからにしたい」——Kさんのその言葉を、今でも忘れることができない。2021年の年末、さいたま市にある大宮公園は、昼下がりにも関わらず凍えるような寒さであった。20年前に家を失って公園内で寝泊まりしていたKさんは、生活保護の利用を勧めた私たちに、上記の言葉をきっぱりと言い放ったのだ。
Kさんはそれより数年前に、高齢で働けなくなったため、生活保護を受けた経験があった。しかし、希望していたアパートへの入所は叶わなかったという。行政の職員から、生活保護を受ける条件として「業者が運営する無料低額宿泊所への入所」を案内されたのである。そこではボロボロの狭い部屋に見知らぬ人と二人で住まわされたうえ、食事の用意から館内の掃除まで、全てを居住者で行うことが求められた。さらに生活保護費のうち13万円ほどがピンハネされ、手元には2万円しか残らない。行政に対し「ここから出してほしい」と何度も頼んだが、まともに応じてもらえなかった。そんな生活に耐えられなくなったある日、着の身着のままで逃げ出して路上へと戻った。「自分もいつかはまた、役所の世話になると思うよ。大宮公園で亡くなった友達もいるし、事件に巻き込まれてその辺で死んだ人もいる。でも、今はまだ…..」そんなKさんの言葉には、絶望が滲み出ていた。
一般的には、「福祉」という言葉に、困っている時に優しく温かく包み込んでくれるようなイメージを抱いている人が多いかもしれない。しかし、生活保護を受けて無料低額宿泊所に収容された経験を持つ路上生活者たちにとって、「福祉」が意味するものは「暗く、冷たく、耐え難い施設収容の経験」に他ならないのである。
Kさんのような事例は、決して珍しいケースではない。1990年代以降のホームレスの増加に伴って、「無料低額宿泊所」(以下「無低」)の数は都市部を中心に急激に増加している。厚労省によると、無低は2020年時点で全国に608ヶ所開設され、1万6397人が入所しているという。運営主体はNPOなどの民間団体であるが、「サービス利用料と称して生活保護費をピンハネされる」「提供される食事の質が悪い」「職員による暴言や暴力が横行している」など、「貧困ビジネス」とも呼ばれる劣悪な施設の存在が指摘されている。
以下に示すグラフを見てほしい。無低の施設数は1998年の43件から2000年代にかけて増加しており、ホームレスの数と反比例するように増えていることがわかる。今年ホームレス数が「過去最小」を更新したことを受け、支援の成功によりホームレスが減少しているかのような報道がなされたが、このデータからは、行政がホームレスとなった人に対し、尊厳のある自立した生活を保障するわけではなく、劣悪な無低に収容することによって路上から「不可視化」し、低劣な生活を強いているパターンが相当数起きていると推察できる。
生活保護は「居宅保護」、つまり施設ではなく自分の家やアパートで保護を受けることを原則としている。法的に見れば、無低は「アパートに移行するまでの間の一時的な滞在場所」とされるべきである。しかし、無低が「事実上の住まい」となってしまっている実態が、調査から浮かび上がってくる。2020年の国のデータによれば、全国の無低入所者のうち24.4%が1年以上〜3年未満、37.4%が3年以上滞在しているのだ。[1] 生活相談現場の実感としても、東京や埼玉、神奈川では9割がたの自治体において、住居を失った人に対して(直接アパートに入居させるのではなく)無低入所への事実上の強制が常態化している印象がある。ホームレスの数が過去最小を記録する背景には、こうした大規模な施設収容が広がっているのである。
なぜ収容は「黙認」され続けるのか
こうした問題は、じつは都市部で困窮者支援に関わる人の間では周知の事実となっている。路上生活を長年経験している人に生活保護の受給を勧めれば、必ずと言ってよいほど「かつて入所した無低でのつらい経験」が語られるし、行政の窓口に同行支援に行けば、東京近郊であれば高確率でまず無低を案内されるからだ。しかし、こうした無低収容の問題は、現場レベルではほとんどの支援者の間で半ば「黙認」されてしまっている。私たちの元には「無低入所が嫌で支援団体に助けを求めたが、『入所は仕方ない』と言われた」という相談も、数ヶ月に一回ほどのペースで寄せられる。こういった相談者の口から、かつて反貧困運動を牽引してきた歴史ある支援団体の名を聞くことも決して珍しくない。
私は夜回りや生活相談の現場に入って間もない頃、Kさんをはじめとする無低収容経験者と出会い、これほど大規模な行政ぐるみの人権侵害が「公然の秘密」となっていること、そして支援団体の間ですら、その問題がまるで「仕方のないこと」のように扱われている事実に衝撃を受けた。
反貧困運動に関わり始めて3年少々の、経験の浅い私がこのような問題提起をすれば、「現実はそう甘くないのだ」と言われるかもしれない。しかしどのような理由があろうと、一人の人間が劣悪な環境で暮らすことを余儀なくされ、手持ちの金銭を徴収され、経営者の横暴に怯え、尊厳を奪われながら人生の時間を過ごすようなことがあってはならないと考える。どれほどの困難があろうとも、無低の廃絶をめざして反貧困運動の歩みを進めてゆくべきだと、あえて提起したい。
どうして今、このような運動が必要なのか。
歴史を遡れば、2000年代後半までは、住居不定者や働ける年齢層の困窮者は生活保護を受給することすら困難であった。当時は行政の窓口で生活保護の申請を拒む「水際作戦」が横行していたからである。その結果、職を失った労働者らは路上へと吐き出され、彼らの存在は「ホームレス問題」として社会的に可視化された。それから20年ほどが経ち、反貧困運動の闘いにより、生活保護の受給をはっきりと拒むような露骨な水際作戦は、東京近郊では減少しつつある印象がある。
その一方で現在主流になりつつある問題が、ホームレス状態にある人々が生活保護と引き換えに前述の無低へ入居させられる問題だといえる。こうした自治体による無低への入居強制は、露骨な水際作戦に対する批判が強まった現在、住居喪失者に生活保護の受給を思いとどまらせる、あるいは受給させた後のコストを最大限抑えるための新たな戦略として立ち現れてきているのではないかと考えられる。
だからこそ、支援団体は「水際作戦を阻止できた」という部分的な勝利に満足していてはいけない。無低の問題を放置・黙認し続けていては、行政の新たなコストカット作戦の片棒を担ぎ、人権侵害に加担することになってしまうからだ。
本論稿では、まず前編として行政が無料低額宿泊所の活用を推し進める背景について、ホームレスに対する水際作戦の変遷を振り返りながら考察する。そして次編では、ホームレス支援に関わる支援者らが無料低額宿泊所の問題をどのように捉え、取り組んできたのか、今後の反貧困運動が無料低額宿泊所にどのように向き合ってゆくべきか、試論を述べたい。
1) 無料低額宿泊所とは、どんな場所なのか
無低とはどのような場所かについて、改めて詳しく見ていく。
無低は社会福祉法が定める第二種社会福祉事業に基づいて設置される施設で、都道府県への届け出によって開業が可能となる。2019年までは居室面積や火災対策などに関する最低基準が定められていなかったため、最低限の設備で低コストで運営しながら、利用者の生活保護費を徴収して利益を上げる「貧困ビジネス」の温床になっていると批判されてきた。過去にはさまざまな事件も起きている。たとえば2009年には、21件の無低を無届けのまま運営し2000人を受け入れていた「F I S」で、経営者が3年間で総額5億円の所得を隠し脱税していたこと[1]、1つの施設の3年間での無断退所者が退所者全体の6割に上っていたことが明らかになり、その運営実態のずさんさが問題となった[2]。また2017年には、千葉県市川市の無低で、84歳の入所者の女性が施設長に暴行を受け死亡した。当時の報道によると、施設長は「言うことを聞かない」と女性に怒りを募らせ、日常的にスリッパや棒で女性を殴打していたという[3]。
2019年に居室面積などの最低基準が定められた後も、施設の環境が十分に改善されたとは言えない。以下、POSSEに近年寄せられた事例から、実際の無低の環境について見ていきたい。
1 埼玉県X市にある無料低額宿泊所
1例目は、POSSEが2023年に相談を受けた、埼玉県X市にある無低の事例だ。相談者は、親による虐待から逃れるために23歳の時に家を抜け出し、ホームレス状態で生活保護を受けた。その後、一度もアパート入居を許されず、いくつかの無低を転々とした末、5年以上この無低で暮らしている。通帳は管理人に没収され、受け取った生活保護費を自ら管理することは許されない[4]。また、1日に2回食事が提供されるが、その内容は毎食同じような揚げ物ばかりであるうえ、冷めきっていて味は良くない。
建物の環境も劣悪で、まずエアコンは設置されていない。部屋の中にある仕切りには猫が通り抜けできるほど大きな穴が空いており、今はベニヤ板で目張りして凌いでいる。また、部屋の外には管理人が放置した粗大ゴミが散乱している。
2 埼玉県Y市にある無料低額宿泊所
2例目は、2020年にPOSSEが相談を受けた、埼玉県Y市の無料低額宿泊所のケース。居室は、下の写真に写っているスペースがほぼ全てだ。右側の壁はベニヤ板で、ワンルームを2つに仕切って「個室」扱いにしている。布団が1枚敷けるか敷けないかの狭いスペースで、さらに布団は前の入居者のものを使い回している。
ホームレスの数が減少する背後で、こうした劣悪な施設へ収容される人の数が増加している。統計を開始した2009年時点で14,089人、2020年には16,397人がこうした施設に収容されている。では、なぜホームレスが減少する代わりに、こうした施設への収容が拡大していったのか。ここからは、90年代にホームレスが増加した背景に、「水際作戦を通しての生活保護からの排除」という問題があったこと、そして水際作戦に対する抵抗と告発の中で、無低収容を引き換えにホームレスを生活保護制度に包摂する動きが広がった経緯を確認したい。
2) 生活保護からの稼働年齢層の排除と、戦略としての水際作戦
生活保護は、その制度の原則からすれば、年収や年齢に関わらず、誰にでも申請権がある。当然ながらこの文章を書いている筆者にも、この文章を読んでいる読者の皆さんにも申請権がある。申請があれば行政は申請者の資産・収入を調査し、基準となる額を下回っていれば保護を開始しなければならない。もし基準よりも収入が上回っていれば、申請が却下されるだけのことだ。しかし、窓口に来ても申請自体させずに追い返す水際作戦により、ホームレス状態にある人や働ける年齢の人は申請の手前時点で生活保護から排除されていた。
具体的にどのようにして申請を阻むかというと、「生活保護を申請できる窓口の存在を隠す(鎌倉市において、生活保護申請を受け付ける相談窓口が2年以上にわたり衝立で塞がれていたことを、2014年にPOSSEが明らかにした例がある)」「申請書を渡さない」「提出された申請書を突き返す」「虚偽の説明を行う」などの方法が取られる。虚偽の説明の典型的なものとしては、働ける年齢層の人に対して「働ける人は生活保護を受けられない」、ホームレスの人に対して「住所がなければ申請できない」、また「家族に養ってもらいなさい」といったものがある。
こうした窓口における申請権の侵害により、貧困者、とりわけ働ける年齢の人やホームレス状態にある人が、申請すらできずに生活保護から排除されてきたという歴史がある。
稼働年齢層を排除してきた生活保護
そうした恣意的な運用の結果、受給者は、生活保護制度が始まってから今まで65歳以上の高齢者や傷病世帯など、労働能力を喪失している層に大きく偏っており、働ける年齢層が生活保護を受けている割合は極めて少なくなっている。非正規雇用で働く人が4割を超えた今、働ける世代であっても失業・半失業状態に置かれ困窮する人はますます増えているが、生活保護を受けるべき水準の所得の人のうち、生活保護を受給できている人はたったの2割ほどにとどまるという推計もある。
戦後に成立した生活保護制度は、明治時代の救貧法であった「恤救規則」における、労働能力や家族の扶養が望めるかどうか、年齢といった個人の資質をベースとした選別基準を取り払い、収入・資産だけを審査の対象としたことで「一般住民」を広く対象とした福祉制度へと脱皮したと言われている。しかし、実際には申請のさらに手前で「この人はまだ働けそうか」「家族が扶養してくれそうか」「家はあるか」などの基準で、救済を受けるべき人とそうでない人の選別が行われており、結果として働ける年齢層に対する生活保護は厳しく制限されてきたのだ。
3) 反貧困運動を受け、水際作戦の戦略は変化してきた
生活保護が生存権を保障する最後のセーフティネットである以上、水際作戦を通じた申請権の侵害は命の問題につながる。だからこそ、困窮者支援の関係者及び当事者らは、水際作戦との闘いに力を注いできた。そして、こうした闘争の結果として、自治体側の水際作戦の戦略は時代とともに変遷してきた。そこで本章では、水際作戦が時代に伴ってどのように変化してきたのかをたどり、水際作戦がある程度抑制された後に出てきた「無低収容」の問題を捉えたい。
1 1990年代の「法外援護」による救済
生活保護行政は、住居が定まっていない稼働年齢層の貧困者(すなわち「まだ働けそうな年代」のホームレス状態の人々)を生活保護制度から排除してきた。1990年代までは、そのような「不定住的貧困層」が窓口を訪れた場合、自治体は基本的に「法外援護」という仕組みを使って、うどんや乾パンなどの食品を渡す、300-500円ほどの金銭を渡して帰ってもらうなどの応急援護を行うことで、彼らの貧困に対応してきた。
こうした正式な福祉からの排除が、1960年代〜90年代くらいまでの間、大して問題化しなかったのはなぜか。1つには、日本型雇用が成立し、多くの国民が生活保護とは無縁の安定した生活を送るようになったことが挙げられる。2つ目の要因としては、下層労働者は日雇い労働市場に吸収され、なんとか日銭を稼いで暮らしていたため、その矛盾が社会的に顕在化しにくかったことがある[5]。家族の形成はおろか、安定した住居を確保することすら難しい極貧状態に置かれていた彼らは、時に集団的な要求行動や都市暴動という手段で怒りを表出させることはあったが、その矛先は福祉行政ではなく、自分たちに暴力を振るう劣悪な飯場や、給与をピンハネする悪徳手配師(労働者を斡旋する業者)へと向かっていた(中根2006など)。
ところが、90年代以降に変化が現れ始めた。まず、高齢化した日雇労働者はもはや建設産業にとっては「不要」な存在となり、寄せ場(日雇い労働の求人業者と求職者が集まる場所)が解体されていった。一般の労働市場からも福祉からも排除されていた彼らは、「ホームレス」になっていった。支援者によると、90年代中頃の多摩川の河川敷には、職を失った元日雇い労働者たちのテントや掘立て小屋が、数百と並んでいたという。また、全産業における不安定雇用・失業の広がりに伴い、それまではスムーズに就職できていた若年層にまで、住居喪失や貧困といった現象が広範囲かつ大規模に広がるようになった。そのような情勢の中、各地で民間の野宿者支援団体が結成され、路上生活者が生活保護を受けられないのは不当だとして、90年代後半には各地で生活保護申請の同行支援活動が行われるようになったのである(佐々木2001)。
各自治体の福祉事務所では、住居が不安定な稼働能力層に対しては、「住民票がないこと」「稼働能力があること」を理由とした水際作戦が常態化していたが、その運用のあり方が、生活保護の申請という権利行使によって徐々に問い直されるようになってきた。名古屋市で路上生活を送っていた林勝義氏が、生活保護を申請したにもかかわらず、稼働能力の不活用を理由として生活扶助の適用が行われなかったことを不服として提訴した林訴訟(1994年)は、稼働能力を理由として路上生活者が排除されてきた生活保護の運用のあり方を問う象徴的な裁判であった(山田2009)。
2 ホームレス自立支援特措法―就労自立困難な層に対する生活保護の適用―
路上生活を余儀なくされた下層労働者による要求と、都市下層の貧困問題が「ホームレス問題」として社会の中で顕在化したことによる治安維持・景観維持の要請を背景に、国レベルでのホームレス対策の必要性が叫ばれるようになった。
その結果生まれたのが、2002年に成立した「ホームレス自立支援特別措置法」である。この法の成立は、ホームレス問題に対する国の責任が明確化したことを示している(稲葉2019)。国は、生活保護によってホームレスに住居や安定した生活を保障することは極力回避したまま、代わりに上記の自立支援法のもとでの就労自立を促進することで「脱・路上化」させることを画策した。この法律は、自立支援センターの設立を要としており、ホームレス状態の人々は原則として就労自立を目指して自立センターに入所させることが推進された。入所者には、自立センターに入所してから2ヶ月の間に就職先を見つけ、アパートへと転宅することが期待された。2ヶ月経過時点で就職が決まっていた場合は、敷金などの初期費用も半額援助される。その代わり、2ヶ月経っても就職できなければ、施設の退所を求められる(北川2006)。「一時的な屋根と食事は用意するから、その間に自力で金を貯めて自立しろ」というわけである。しかし、実際にはこの取り組みによる就職率は極めて低く、国の期待通りの成果が得られたとは言えなかった。「就労自立」によって退所した人の割合は入所者の約半数に留まり、その内実も、多くが日雇いや住み込みなどの不安定な雇用形態であった。そもそも、これまでも複数の研究者が指摘してきたように、彼らがホームレスになった原因は高齢や持病により働けなくなったことや、経済の低迷による雇用の悪化であり、2ヶ月の「就労支援」で安定的な雇用に就ける人が少ないというのは当然の帰結であった(稲葉2019・山田2016など)。
こうして、自立センターに居られる時期を過ぎても職が見つからない、稼働能力を持たない高齢の路上生活者に関しては、生活保護の適用が進むようになった。それに加え、困窮者支援活動に携わる稲葉剛氏によると、この頃から民間での生活保護申請の同行支援も広がりを見せるようになり、あらかじめ申請書を持参して福祉事務所を訪れる路上生活者が増えたことで、稼働年齢層のホームレスに対する水際作戦が通用しなくなっていったという(稲葉2019)。また、自立支援センターへの誘導が実質的な水際作戦となっている実態について、当事者と支援者による訴訟も提起された。「新宿七夕訴訟」と呼ばれる訴訟である。これは、2008年に東京都新宿区でホームレス状態にあった男性が生活保護を申請しようとしたところ、福祉事務所の職員が「ホームレスは自立(支援センター)に行ってもらっている」と主張し、生活保護の申請を水際で食い止めたうえ、申請後も「稼働能力の活用」を根拠に生活保護申請を却下したことを発端とした訴訟であり、2011年に東京地裁にて原告側が全面勝訴した(渡邊2012)。こうした闘争が広がる形で、2000年代には働くことのできない路上生活者を中心として、生活保護の適用が徐々に広がることとなった。
3 2008年以降―派遣村と、稼働能力層への生活保護の適用―
その後、生活保護の運用が再び大きく変化する契機となったのが、2008年の「年越し派遣村」である。リーマンショックに伴う派遣切りによって、年末に多くの派遣労働者が仕事と住居を同時に失った(岩永2013)。この、大規模に発生した失業者の年越しを支援したのが、日比谷公園に形成された「年越し派遣村」だった。これは、野宿者支援を行っていた支援者と労働組合の協働のもと運営された、失業して寮を追い出された派遣労働者のためのテント村であった。この時、ホームレスとなった派遣労働者たちは、野宿者支援団体によるサポートを受けながら福祉事務所に詰めかけ、次々と生活保護の受給を認めさせた。2009年1月10日の毎日新聞朝刊によれば、日比谷公園がある千代田区の福祉事務所は年明けからの5日間で207人に対して面接を実施し、8日と9日には支給を決定したという。[6]稼働能力層へのこのような集団的な権利行使が、生活保護の稼働能力活用要件が現場レベルで大幅に見直される、大きな画期となった。そのことは、統計を見ても明白だ。稼働年齢層(20〜59歳)の生活保護受給者数は、2008年の49万4731人から、2011年の68万4714人へと急増している。
また、こうした反貧困運動の盛り上がりと並行して、水際作戦に対する告発が相次いだ。たとえば、2007年には北九州市における水際作戦を背景とした餓死・自殺事件が大きく報じられ、北九州市が長年にわたって生活保護費決算額に300億円の上限を設けており、その上限内に収めるための水際作戦が横行していたことが発覚した(藤藪・尾藤2007)。また、その運用方式が一部の自治体に限った問題ではなく、80年代以降の国の生活保護「適正化」政策の中で生まれたものであり、国が北九州市を「モデル自治体」として表彰していたことが明るみに出ると、国は水際作戦を助長しているとの批判にさらされた。
このような、稼働年齢層のホームレス(=失業中の労働者)による生活保護適用を求める運動の広がり、水際作戦に対する社会的批判の広がりの中で、これまでのように露骨な水際作戦によって保護を断念させるということは、とりわけ支援団体が集中する都市部においては抑制されるようになった。
4 〜現在、施設収容という条件付きの生活保護適用
このように、反貧困運動は生活保護の間口を広げるべく、少しずつ歩みを進めてきた。その成果として、近年、東京近郊では露骨な水際作戦は減少傾向にある。最近ではコロナウイルス感染拡大以降、初めての年末を迎えた2020年12月に、厚労省が職を失った労働者向けに「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」というメッセージをホームページに掲載するなどの動きもあった。
その一方で拡大しているのが、生活保護を受ける住居喪失者に対する無低への収容であると考えられる[7]。無低はホームレスへの生活保護適用が広がる2000年代前半から大幅に増加(1998年:48施設→2020年:608施設)しており、今もその数は増え続けている。
無料低額宿泊所への入居を前提とした対応が多くの自治体で横行していることを、筆者は相談活動の中で痛感してきた。筆者が申請同行をした東京23区内のある自治体では、その自治体に勤務して10年のベテランケースワーカーが「住居喪失者に対して、施設入所を経ずにアパートへの入居を許可した事例は、自分の知る限り1件もない」と話していた。
4)コストカットの「新たな戦略」としての無料低額宿泊所
露骨な水際作戦が取られなくなった今、無低への入居を前提とした生活保護の適用が行われる直接的な要因は、大きく分けて2つあると考えられる。1つは、人員面でのコストカットの論理だ。自治体ごとのケースワーカーの設置基準は、ケースワーカー一人当たり80世帯を受け持つのが適当とされているが、これが守られている自治体は少なく、一人当たり200以上の世帯を担当しているという自治体も珍しくない[8]。このように少ない人員でケースワークを回すうえで、生活保護受給者を一括で管理してくれる無低は、ケースワーカーにとって「ありがたい」存在となっている(山田2016)。
もう1つの理由は、生活保護財政のコストカットの論理である。生活保護の費用は、通常、国庫負担が4分の3、自治体が4分の1を負担する。しかし、無料低額宿泊所の研究をしている山田壮志郎によると、一部の自治体においては、無低に入所させた場合、「住居不定者」の保護と同じ扱いになり、本来自治体が負担する4分の1の負担分を、都道府県が負担することになっているという。無低入所者の生活保護費負担を都道府県が持つ地域であれば、生活保護の申請を通し、受給が決定したとしても、受給者が無低に滞在している限り、自治体としての財政負担は最小限に抑えられる。また、無低にずっと滞在させておけば、アパートの契約や転居に関わる支出も生じることがない。
さらに、無低入居の事実上の強制は、より巧妙化した「水際作戦」としての側面も持ち合わせている。無低への入居を事実上の生活保護受給の条件とすることで申請を断念させれば、当然自治体の費用負担は生じない。責任を追及されたとしても「排除はしていない。当事者が申請を“自主的に”辞退しただけだ」という言い訳も可能だ。
「帰ってください」と告げるような、露骨な水際作戦を行うことはもはやできない。しかし、自治体に対する4分の1の財政負担の原則は残っている。その中で人員・財政のコストを最大限削るため、無低への入所の事実上の強要が横行しているのだと考えられる。
まとめ 「水際作戦の突破」の先に立ちはだかる無料低額宿泊所問題
ここまで、行政がこの十数年間、無低を拡大させてきた背景について、水際作戦とそれに対する反貧困運動の抵抗という視点から分析してきた。この20年余りの福祉要求の結果、支援団体の多い都市部においては、ダイレクトに困窮者を窓口にて追い返すという戦略は取られなくなった。その中で、生活保護財政のコストカットを推し進めたい行政側の新たな戦略として立ち現れてきているのが、無料低額宿泊所という「貧困ビジネス」の活用だと考えられる。
その中で、全国で16,000人近い人々が、今も施設での低劣な生活を強いられている。また一方で、こうした施設に入ることが耐え難く、生活保護を受けずにいる人が路上やネットカフェに溢れている。だとすれば、反貧困運動のこれからの焦点は「無料低額宿泊所の廃絶」へと向かうべきではないだろうか。
次編では、なぜ近年多くの支援団体が権利を求めて行政と闘うのでなく、むしろ行政と一丸となって当事者を低劣な支援に「押し込む」ような関わりをしてしまうようになったのかについて考察する。そして、近年POSSEに寄せられる若年層の無低収容者からの相談を手がかりに、当事者を支援・組織しながら施設からの脱出を進める運動の可能性について論じる。
<参考文献(著者五十音順)>
稲葉剛(2018)「国内におけるホームレス対策の進展とハウジングファースト~東京23区における状況を中心に」稲葉剛・ほか編『ハウジングファースト 住まいからはじまる支援の可能性』山吹書店
岩田正美(2005)「政策と貧困—戦後日本における福祉カテゴリーとしての貧困とその意味」岩田正美・西澤晃彦編著『貧困と社会的排除 福祉社会を蝕むもの』ミネルヴァ書房
岩永理恵(2013)「生活保護しかなかった─貧困の社会問題化と生活保護をめぐる葛藤」副田義也編『闘争性の福祉社会学 ドラマトゥルギーとして(シリーズ福祉社会学2)』東京大学出版会
北川由紀彦(2006)「野宿者の再選別過程—東京都『自立支援センター』利用経験者聞き取り調査から」狩谷あゆみ編著『不埒な希望 ホームレス/寄せ場をめぐる社会学』松籟社
厚生労働省(2021)無料低額宿泊事業を行う施設の状況に関する調査結果について(令和2年調査)
佐々木宏(2001)「札幌における『ホームレス』(2) 野宿者の自立支援をめぐって」教育福祉研究,7, 73-80
中根光敏(2006)「失われた光景から 寄せ場とはなんだったのか?」狩谷あゆみ編著『不埒な希望 ホームレス/寄せ場をめぐる社会学』松籟社
藤藪貴治・尾藤廣喜(2007)『生活保護「ヤミの北九州方式」を糾す 国のモデルとしての棄民政策』あけび書房
森川清(2014)『新版・権利としての生活保護法』あけび書房
山田壮志郎(2009)『ホームレス支援における就労と福祉』明石書店
山田壮志郎(2016)『無料低額宿泊所の研究 貧困ビジネスから社会福祉事業へ』明石書店
渡邊恭子(2012)「ホームレスは生活保護を受けられないの? 〜新宿七夕訴訟第1審判決勝訴と控訴審」自由法曹団東京支部
脚注
[1] 2010年1月14日朝日新聞「貧困ビジネス経営者らを告発 2億円脱税容疑で国税局」
[2] 2009年9月29日毎日新聞「名古屋に無届け宿泊所」
[3] 2017年9月21日産経新聞「スリッパなどでも殴打 別の入居者へも暴行 千葉・市川の施設長」
[4] 家計管理が困難であることを理由に社会福祉協議会の金銭管理サービスなどの社会的資源を利用する人はいるが、相談者はそういったケースには当たらない。本人は金銭管理能力に問題を感じたことはなく、無低入所前は自立した生活を送っていた。
[5] 戦後、下層労働者が集住する地域では「都市暴動」が頻発し、国は治安維持の観点から「刈り込み」を行った。それにより、家族世帯は公営団地、孤児や高齢者は施設、稼働年齢層の女性は「売春防止法」のもとでシェルターへと吸収されるか(旧)赤線地区・温泉街の寮付きの仕事へと吸収され、残る稼働能力層の男性は日雇い労働市場へと吸収されていった。労働力の調達が容易なように、彼らは「寄せ場」に集められ、一部の地域に集住するようになったため、地理的にもその存在は「不可視化」された。
[6] 生活保護の開始あるいは却下決定は、原則として14日以内に通知しなければならない。通常は10〜14日ほどかかる場合が多いため、これは異例の早さといえる。
[7] 追加の論点として、2013年の生活困窮者自立支援法の制定により、失業者・半失業者に対する就労自立支援によって貧困層を生活保護から遠ざける「沖合作戦」が進んでいるという論点もある。この検討は別稿に譲りたい。
[8] 2000年の規制緩和までは、最低基準数として「一人につき80世帯」と定められていたが、配置基準が最低基準数から標準数に改正され、弾力的運用も可能になった。