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旧優生保護法裁判・勝訴判決の意味 仙台から広がった闘いが社会を突き動かし始めた〜仙台の学生からの報告〜(鴫原宏一朗)

 2024年7月3日、最高裁判所前はこれから言い渡される世紀の判決を前に、賑やかながらも緊張感に包まれていた。
 私は運良く最高裁の大法廷に入り、判決を傍聴することができた。

 最高裁判事「原告(国)の請求を棄却する」

 約2万5000人の優生手術被害者たちの「万感の怒り」を込めた優生保護法国賠訴訟で、ついに最高裁判所が国の責任を認めたのだ。
 「原告の請求を棄却する」という言葉を聞き、わたしは肩の力が抜けるのと同時に、5年前2019年5月28日を思い出さずにはいられなかった。
 その日は日本で初めての優生保護法下の強制不妊手術の国の責任を問う裁判の判決の日であった。
 当初、原告は飯塚淳子さん、佐藤由美さん(ともに仮名)の2人だった。原告側は一切の請求を認められなかった。
 当時から仙台に在住し、社会運動に関わっていた筆者は、優生保護法裁判の裁判傍聴や署名集めに参加しており、日本で初めて司法が優生保護法について判決を下す場面にも居合わせていた。そこから足掛け5年、ようやく勝ち取った最高裁判決であった。
 本稿では、優生保護法裁判の始まりである飯塚さん、佐藤さんの仙台地裁での訴訟の提起から、最高裁の判決にいたるまでの経緯を、裁判に関わっていた者として記しておきたいと思う。
 この訴訟は、法的な困難さゆえに勝つことは「ほぼ不可能」であると言われていた。それにもかかわらず、法的な壁を乗り越えることができたのは、なぜだろうか? それは他でもなく、飯塚さんら被害者の被害の訴えと、それを支える支援運動を広げていく努力が、優生手術の被害を放置することを許さない情勢を作り上げたからだ。声をあげた2人とともに闘う人々が1人、2人と集まり、やがて大きな力となったのだ。

衝撃の不当判決 2019.5.28

2019年5月28日、判決直後の仙台地裁前の様子


 「原告の請求を棄却する」という言葉から始まった判決の読み上げに、裁判所のなかは怒りと困惑に渦を巻いた。

 「旧優生保護法は憲法違反である。」
 「しかし、国が被害者を救済する責任があることは明白ではなかった。」
 「および、民法724条の除斥期間により、原告の請求権は失効している。」

 旧優生保護法は憲法違反だが、国の責任は認めないという判決に、納得できた人は誰一人していなかった。
 報告集会での飯塚さん、佐藤さんの涙は今でも忘れない。
 優生保護法が母体保護法に改正され、飯塚さん、佐藤さんが裁判を提起するまでに、20年。
 この年月の重み、裁判を提起すること自体のとてつもない困難さを、飯塚さん、佐藤さんの話から感じていただけに、怒りを抑えることはできなかった。
 この判決をきっかけに、わたしは仲間たちと一緒に裁判支援を行うグループを立ち上げ、裁判所と国に対する署名を開始した。(http://www.arsvi.com/o/khp.htm)

2019年秋、仙台の市街地での署名活動の様子

万感の怒りを込めた裁判
 なぜ優生保護法裁判の提起はこれほどまでに遅れているのか。優生保護法は1948年に制定され、1996年に改正されているが、裁判の提起は2018年が最初だった。
 理由は3つ考えられる。一つは障害者差別の根強さゆえだ。優生手術の被害を受けたとして、声を上げることは、障害者差別が根強い日本においてはとてつもないハードルであった。
 二つ目の理由は、そもそも自分が受けた手術が優生保護法による手術であると知らない人が多いということ。つまり、多くの人は理由も知らされず、不妊手術をされていたのだ。
 三つ目の理由は訴訟の法的な難しさであった。民法724条は消滅時効に関する規定であるが、1989年の最高裁判決にて「除斥期間」という解釈が生まれた。違法行為から20年が経過してしまえば、有無を言わさず請求権がなくなるという解釈である。
 こういった様々な問題のために、優生保護法は1996年に改正されているものの、手術被害については社会問題として認知されているとは言い難い状況だった。
 しかし、仙台の最初の裁判の原告になった飯塚さんと「優生手術への謝罪を求める会」という団体は、国が優生手術をなかったかのように扱うなか、法改正後も繰り返し国に対して謝罪と賠償を求めていた。厚労省は「当時は適法だった」として、飯塚さんたちの要求に全く応じなかった。
 その後2013年、飯塚さんの代理人になる新里宏二弁護士と、生活相談会で出会う。
 優生手術の実態に衝撃を受けた新里弁護士は飯塚さんとともに日本弁護士連合会に人権救済申し立てを行う。
 その報道を見た佐藤路子さん(仮名)は、義理の妹の佐藤由美さんが受けた手術が飯塚さんが訴えている手術と同じではないかと思い、新里弁護士につながるにいたる。佐藤さんと飯塚さんによる裁判はここから始まる。
 佐藤さんと飯塚さんの裁判の報道を見た、全国の優生手術被害者たちは、そこで初めて自分の手術の意味を知った人が多かったという。東京訴訟の原告の北三郎さんもその一人だ。
 こうして優生保護法裁判は、仙台から東京、大阪、札幌、神戸、熊本、静岡、愛知、福岡、兵庫、徳島、大分など全国各地に広まり、訴訟の提起と同時に原告を支えるグループも結成され、大勢の当事者と支援者が関わる社会運動となった。

ついに国の責任が認められた
 最高裁判決は、最初の仙台地裁判決で認められなかった請求をすべて認める、全面的な勝利であった。
 2019年5月28日判決の悔しさは、裁判のさらなる提訴、署名の広がりなど、運動の広がりというかたちで乗り越えられ、ついには最高裁で勝つことができた。
 裁判を提起することすら困難であった裁判は、除斥期間という様々な問題(徴用工、従軍「慰安婦」、水俣病など)の請求を封殺してきた抑圧の法解釈すら突き崩した。
 最高裁判決で強調されているのは、「正義」と「公正」であり、なんら難しい法解釈が行われているわけではない。飯塚さんたちの請求が認められないことは著しく「正義」と「公正」に反する、だから国には賠償責任があるといった、いたって単純な理屈だ。飯塚さんをはじめ、たくさんの原告、支援者たちの数十年に渡る諦めない闘いが最高裁に今回の判決を書かせたと言えよう。

2024年7月3日、判決直後の最高裁前の様子。

本当の闘いはここから
 最高裁判決後の報告集会にて、北さんは「2万5000人の救済が終わるまでは解決とはいえない」と語った。日本障害者協議会会長の藤井克徳さんは「『勝訴』は終わりではない、むしろ始まりである」と語った。わたしもそうだと思う。
 なぜなら、国家による優生手術への賠償責任は認められたが、この社会にはまだ優生思想・障害者差別が根強く残っているからだ。津久井やまゆり園事件(2016年)のような障害者へのヘイトクライムだけでなく、日常的に生活保護受給者には差別的な目が向けられ、ケースワーカーによる「出産禁止」指導が行われている。さらに、「出生前診断」による障害児の堕胎のような、国家に強制されない形での「障害者殺し」はいまでも続いている。
 「障害者」と「健常者」が区別され、「生産性」のない「障害者」を価値のない存在とみなす社会を変えるために、さらなる社会運動を広げていこう。

筆者:鴫原宏一朗(しぎはらこういちろう)
1998年、福島県生まれ。東北大学農学研究科博士課程、専門は農業経済学。食という観点から、地域の衰退や貧困問題について研究をしている。3.11に伴う福島第一原子力発電所の事故とその後の被災者・避難者への国の対応の酷さをみて、環境問題・貧困問題に関心を持つ。POSSE仙台支部やフードバンク仙台で生活相談・労働相談・政策提言に取り組んでいる。

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