年間5000人以上が貧困によって死ぬ社会(前編)−今こそ日本でも「餓死」に正面から向き合うべきだ(鴫原宏一朗)
1.はじめに―生きていけない、誰にも言えない
本論考は、生存をするのがギリギリの水準の貧困が広がっている実態を明らかにし、反貧困運動の今後の展望を見出そうとするものである。 筆者が活動に関わっているフードバンク仙台の支援現場には、生存するのがギリギリの世帯からの支援依頼が年間のべ3000件ほど寄せられている。典型的なケースを紹介しよう。
こうした苦しい生活は、決して例外ケースではない。例えば、2023年4月〜2024年2月までのフードバンク仙台にきている相談の2545世帯の約30%は電気・ガス・水道料金を滞納している。生存するうえで必要不可欠のライフラインの料金すら払うことができない状況が広がっているのだ。
「食事は一日に一回」、「食費とライフライン料金で手元のお金がなくなってしまい、学費が払えない」、「病気を患っているのに病院に行けない」など、たとえライフライン料金が払えていたとしても、生活の異なる部分にしわ寄せが行っているケースも非常に多い。友人と出かけたり、おしゃれをしたり、映画を見たりといった文化的な生活はおろか、日々の生活に必要なだけの食事・電気・ガス・水・電話やインターネットにすら十分にアクセスできない世帯からの支援依頼が毎日のように押し寄せる。こうした依頼に対して、私たちは日々支援を行っているが、「小手先」の食料支援だけでどうにかできる困窮の深まり方・広がり方ではない。
そのうえ事態が深刻なのは、こうした生活のどうにもならなさ、苦しさが全くと言っていいほど社会に表出していないことである。つまり、社会的な問題として捉えられていないのだ。ライフライン料金が払えない、食費が足りないなどの生活苦は、自らの消費の仕方・節約の努力不足の結果として経験され、それぞれの世帯をさらに過酷な節約へと駆り立てる。
こうした生活を送っている世帯は、かならずしも「かわいそうな困窮者」ではないことも、事態にわかりにくさに拍車をかける。ホームレスなどの「わかりやすい困窮者」ではなく、フルタイムで働き、家族形成をしている世帯にも貧困は広まっている。あたかも社会に異常は発生していないかのような雰囲気のなか、多くの人は節約が難しい状況でも「不可能な節約」を強いられ、静かに苦しみ、誰にも相談できずに人知れずもがいている。
そして、果てには貧困によって多くの人が命を落としている。2023年、「経済・生活問題」による自殺者は分かっているだけで5181人に上り、ここ10年で最も多い数値となった。自殺の動機は家族等の証言から分かるものを計上しているにすぎないため、多くの暗数が存在することは想像に難くない。
こうした現状を反貧困運動はどのように捉える必要があるだろうか。本論考ではこうした状況を日本において生存維持がギリギリの「絶対的貧困」が発生している状況であると捉え、分析を進める。
一般的に「絶対的貧困」は「グローバル・サウス(≒「発展途上国」)」において発生している「生存できない」水準の貧困を表す概念と捉えられており、日本では絶対的貧困は存在しないものとして捉えられている。こうした日本の「貧困観」について立ち入って検討する必要がある。なぜなら、生存維持そのものが難しくなりつつある現状を反貧困運動が問題にできていない背景には、運動の側の貧困観が大きく関わっていると考えられるからだ。
本論考では、まず日本の最後のセーフティーネットである生活保護が生存を守れているかを検討し、その上で日本において貧困がどのように捉えられてきたのかを検討を行う。その後日本の貧困の概況を、統計データをもとに可視化を試み、さらに、支援現場での聞き取り調査をもとに、「絶対的貧困」の実像を浮かび上がらせ、この状況に対して反貧困運動がどのように立ち向かえるかを検討する。
2.生活保護は絶対的貧困を防いでいるか
ここまでの議論を踏まえ、生存ギリギリの貧困が発生している原因は生活保護の漏給(生活保護を受けられる所得水準なのに、受けられていない)の問題なのではないかと考える人がいるかもしれない。生活保護の漏給は、低所得世帯の困窮を深刻化する主な要因の一つであることは確かである。2018年の厚生労働省の推計では、所得のみの比較で捕捉率は22.6%、資産(預貯金1か月以上を除外)を考慮した場合捕捉率は43.3%であり、6~8割の受給漏れがあることが明らかになっている。こうした生活保護法が定める最低生活費以下での生活が、いかに苦しいものであるかは想像に難くない。
しかし、フードバンク仙台には生活保護受給者からの支援依頼が押し寄せている。ひとつのケースを紹介しよう。
一日一食の食事、携帯電話やWi-Fi、ライフラインの料金が払えない生活は「健康で文化的な最低限度の生活」といえるだろうか。
こうした生活実態からは、たとえ生活保護を受けることができたとしても、生存が保障される生活水準になるとは断言できないことが分かる。
実はフードバンク仙台の支援依頼者のなかで、生活保護世帯はかなりの割合を占める。2022年度はのべ3069世帯に食料支援を行ったが、そのうち約20.9%にあたる643世帯は生活保護世帯であった。2023年度もおおむね傾向は変わらず、のべ2793世帯の食料支援のうち約19.4%にあたる543世帯が生活保護世帯であった。
ここ数年の生活保護基準の低下は、もともと困窮していた生活保護世帯の生活がさらに苦しくなった直接的な原因だ。日本の生活保護基準は、全国家計構造調査における所得下位10%層の消費水準との比較検証によって決められており(「水準均衡方式」)、そもそも生存を守る基準に準拠して検証されているものではない。この方式では高度成長期のような消費水準が上昇傾向にある時期であれば、保護基準も同時に上昇していくことになるだろう。しかし現状は、下層世帯の所得は減少を続けており、所得下位10%層の世帯は生活保護の漏給世帯で生存ギリギリの「絶対的貧困」であるため、生活保護基準も減少することになってしまう。そのうえ、2013年には当時の自民党が「生活保護基準の10%引き下げ」を選挙公約に掲げ、その選挙で自民党が政権をとったことで引き下げが正式に遂行され、以降生活保護基準は低下を続けている。
生活保護を受けられれば生活が大きく改善する世帯が多いのは確かだ。しかし、ここまでの議論を踏まえ、生活保護を受けられれば貧困を脱することができるという前提は誤りだと言えるだろう。以降の絶対的貧困に関する議論は、生活保護世帯の貧困も含みこんだものとして進めていく。
3.どのような「貧困」が問題とされてきたのか―西欧の福祉国家と日本の比較―
日本の生活保護が絶対的貧困を防ぐ制度ではないことは、西欧の福祉国家の社会扶助が絶対的貧困を防ぐ制度であることと比べて特異である。それに加え、西欧の福祉国家の社会福祉は、絶対的貧困を防ぐだけでは不十分と批判を受け、文化的な生活や社会参加をも保障するものへと射程を拡大している経緯がある。貧困とはどのような生活か、「あってはならない生活状態」はどのような生活かをめぐり、19世紀末から調査活動や社会運動が積み重ねられ、貧困観が拡大・発展してきたことによって福祉国家の社会福祉は拡大してきたのだ。こうした福祉国家における貧困観の拡大の変遷を見ることで、日本の貧困観がいかに立ち遅れているかを浮かび上がらせることができるだろう。簡単にではあるが西欧を中心に形成された貧困観を参照しながら、近年の日本で貧困がどのように捉えられてきたのかを検討する。
西欧での「絶対的貧困」の意味はさきほども述べたが、文化的な生活や「人間らしい」生活という次元の問題ではなく、「動物としての生存」が不可能な貧困のことである。こうした基準は、戦中・戦後の労働組合運動の要求・圧力によって、さらに高い生活水準が実現し、上書きされていく。
そこで生まれるのが「相対的貧困」である。つまり、ただ生存できればよい基準から、当該社会において人間としての「ふつうの生活」、家族を形成できるかどうか、余暇時間に文化的な生活を送ることができるかどうかといった生活水準が社会的な基準として形成され、その基準より低い水準の生活が相対的貧困とされたのだ。その後、1970年代以降、貧困は「ふつうの生活」の基準が「物質的」に不足している問題に加えて、画一的な福祉だけでは解決できない側面も注目されるようになっていく。それが「社会的排除」である。
「社会的排除」という概念は多義的な言葉であるとされているが、問題にしようとしていたのは2点であり、①福祉国家の福祉を十分に受けられない層が出現していた点、②福祉を受けられたとしても、福祉を受けることで社会参加の機会を失ってしまう点である。1980年代、西欧では若者の就職難による長期失業者が増え、大きな社会問題となった。若者が長期失業状態に陥ることは、福祉国家の福祉制度は想定しておらず、新卒時に就職できなかった若者たちは失業保険の対象とならず、年金保険、医療保険など複数の保険から漏れてしまうという状態が発生していた。こうした事態に対して、保険金無拠出であっても給付が受けられる福祉の拡充という形で対応がなされた。また、福祉受給者は、行政の職員による私生活への介入が行われ、そのうえ福祉受給のスティグマもつきまとい、社会参加が著しく妨げられていた。とくに、アルコール依存者や移民、障害者はこうした傾向が顕著であった。こうした事態に対応するため、福祉を受給して終わりではなく、行政の職員が福祉を受けた後に、福祉を抜け出し、一般的な雇用・住宅にアクセスできるようにするための参入支援を行うことが進められた。
ここで強調したいのは、あくまで人間としての「ふつうの生活」を保障する福祉があるという前提で、そのうえで「社会的排除」が論点になっている点である。
ここまで見てきた貧困概念を耳にしたことがある人は多いだろう。普段日本で耳にしている意味合いとは少し異なっていると感じた人もいたかもしれない。なぜなら西欧と日本では同じ言葉を使っているが異なる意味で使われているからだ。日本での貧困概念の扱われ方と意味内容を見ていこう。 世界銀行は「絶対的貧困」を「一日に2.15ドル未満の生活」を送る人であると定義しており、日本での「絶対的貧困」の用語法は基本的にはこの意味で使われている。この定義に照らし、絶対的貧困は日本国内には存在せず、グローバル・サウスの貧困の問題であるとされている。 では相対的貧困はどうか。OECDが定める基準「全人口の家計所得中央値の半分」を日本はそのまま取り入れており、その基準以下を相対的貧困として計測している。しかし、この定義・計測方法ではおおまかに低所得層がどの程度広がっているかということしか分からない。相対的貧困はたとえば全体的な所得の低下によって等価可処分所得の中央値が減少した場合、相対的貧困の基準も下がり、相対的貧困の世帯割合も減少することもありうる。後ほど触れるように、例えばイギリスでは、相対的貧困の指標をOECDの基準をそのまま利用するのではなく、社会調査に基づき「ふつうの生活」の基準を検討したうえで所得中央値60%を基準としている。 ここまで見てきたように、日本の貧困の基準は生存できるかどうかで決められているわけではない。「動物としての生存」が可能な基準、人間としての「ふつうの生活」が可能な基準が存在しないのだ。貧困の基準になりうる生活保護が定める最低生活費も、所得下位10%世帯の消費水準との比較によって決まっているため、生存できるかどうかを基準にしているわけではない。では最低賃金はどうか。日本の最低賃金は主に非正規労働者の賃金が主な規制対象であり、金額の水準として参照されているのは主婦パートなどの「家計補助」賃金であった。「家計補助」賃金は、一人で生活していける「一人前賃金」よりもずっと低い水準であり、この水準に日本の最低賃金は設定されている[1] 。日本の最低賃金制は生計費原則から切り離されてしまっているのだ。 西欧と異なり、生存を守る福祉の物質的供与が不十分ななかで「社会的排除」が取り上げられるとどうなるか。「社会的排除」という概念は、福祉国家の物質的な福祉だけでは社会から孤立してしまう人がふつうの生活を送るため・社会参加できるようにするための「プラスアルファ」の福祉の必要性を議論する文脈で使われていた言葉であった。そもそも日本においては、無償・廉価に提供されている住居や教育など生きるために必需の財・サービスに高額な費用を支払う必要があり、物質的なレベルで生存が保障されていない。こうした状況で、日本の社会的排除の議論は、野宿者や、障害者などの孤立を防ぐために地域で「つながり」・「居場所」を作ることや、「自立」して企業での労働を通じて社会とつながることが大事であるといった、抽象的な議論に終始している。日本でも社会的な孤立は確かに広がっているが、物質的な福祉が十分に提供されていないことに根本的な問題があるのではないか。しかし、今現在、物質的な福祉を求める動きは全体としては弱い状況だ[2] 。
改めてここまでの議論をまとめよう。日本では生存の基準が作られておらず、貧困の把握も形式的な統計によって行われているにとどまっている。こうしたなかで貧困は不可視化され、生存そのものが正面から問題にされていない。以下では、生存そのものを日本で問題にしていくために、まずは統計を用いて実態の把握を試みる。
(後編へ続く)
[1]日本の最低賃金制が「主婦パート」を基準にしている背景については、木下(2018)を参照。国家による最低賃金規制は、労働組合による労働市場での賃金規制を後追いする形で行われる。日本の労働市場の低賃金相場の基準とされた主婦パートの賃金は、一人で生活できる「一人前」賃金ではなく「家計補助」賃金であった。
[2]もちろん、全国で行われている生活保護費引き下げを問う「いのちのとりで裁判」など重要な取り組みは存在する。