役者をシステム科学する①
これは最近考えていることを整理するための文章である。
システム科学
大学院で「システム科学」という学問を専攻していた。
ありとあらゆる領域の対象を「システム」として捉え、対象を把握・分析する学問である。ここでは、役者をシステムとして捉え、「演技する」とはどういうことかを考えてみたい。
システム科学で重要なのは「対象をどう捉えるか?」、すなわち「モデリング」という行為である。モデリングのアイデアや手法は数え切れないほどあるが、ここではソフトウェアエンジニアリングでよく用いられるIPO(Input -> Process -> Output)の考え方を使いたい。
ある入力/Inputがあり、それを処理/Processした結果、出力/Outputが生じる。この一連の流れをシステムとみなす。
役者をモデリングする
この考え方に従って、役者が演技する様をモデリングするとどうなるか。
出力が最もわかりやすい。「役としての言動・佇まい」である。観客はこのアウトプットを観測する。
入力は何か。これはもう無限に考えられる。そのとき見えたもの、聞こえた音や声。温度。手触り。入力は自分自身からも与えられ得る。たとえば椅子に座ろうと考えること。特定の記憶を引っ張り出すこと。抽象的な表現でもよければ、何かのスイッチを入れること、グッと力を入れること、なんかも入力となる。「セリフを言おうとする」も入力である。
では処理を司るものとは。これは役者の「身体」にほかならない。入力に対して細胞が働く様こそが、ここでいう処理である。
処理に役者の「思考」を含めるか少し悩んだが、「身体」のみとした(真面目に考え出すと「心と体の一致」とか「心とは何か」みたいな話になって収集がつかない)。
今回はかなりシンプルなモデルなので、インプットは「任意である」べきだと考える。「思考する」とは自身の意思で行える(任意の)行為だというのがここでの考え方である。
一方で、唯一プロセスとして分類した「身体」は、ここではほとんどブラックボックスのようなものとみなしている。
あまり良い例は浮かばないが、たとえば「右手を挙げる」という演技が要求されたとき、ほとんどの役者は「右手を挙げよう」と思考し、それを入力とするはずである。真面目な役者であれば「右手を真っ直ぐ伸ばして挙げよう」とか「右手をゆっくりと挙げよう」ぐらいまでの思考には至るだろうが、「腱板を動かそう」と思考する役者はまずいない。
役者の作業
ここからは「舞台公演の稽古」に話の的を絞る。
上記のモデルに照らし合わせて考えると、稽古で役者がやっている作業というのは大体次のようなことかと思う。
(1)期待される出力を把握する
(2)期待される出力を座組で共有する
(3)期待される出力のために必要な入力を把握する
(4)ある入力が与えられたときにどう出力されるかを把握する
(1)~(4)を繰り返すことに心身を削るのが舞台役者という生き物である。
このうち、(1)と(2)の作業は、ごく一般的なコミュニケーション能力を基盤とする。そして、時に高度な想像力を必要とする。
(3)と(4)の作業はどちらかというと自分と向き合う作業である。身体というブラックボックスの輪郭をぼんやりと掴み、ルールを推測していくような感覚だ(個人的には)。
(4)はまさにシステム科学の神髄であり、この行為によって役者としての性質が決定づけられるといっても過言ではない。
余談だが、とてもドライな考え方をすると、座組が顔(と体)を突き合わせて稽古をする意義というのは(1)と(2)だけである。(3)と(4)はてめえで勝手にやれよ、と冷たく言ってのけることもできるが、他人と一緒に考え、試行する方が圧倒的に効率が良いことは間違いない。
稽古では(1)と(2)に主眼が置かれるべきだが、時間の許す限り、相互に協力して(3)と(4)の作業も行うべきである。
さらに余談だが、役者が持つべき重要な性質の一つに「再現性」がある。とりわけ、ライブで同じ演目を何回もこなさなければならない舞台役者には、良い演技を再現できるスキルが欠かせない。
「再現性が高くない」というのはある意味で生の醍醐味と言えるかもしれないが、ムラがありすぎると、「ピーキーな役者」とみなされて一般的にはあまり重宝されない。
再現性を高めるためにも(3)と(4)の作業は欠かせない。
稽古中のコミュニケーション
稽古では、演出から役者への「演技の要望」、役者から役者への「アドバイス」などのコメントが飛び交う。これらのコメントは、役者の入力に対するものなのか、出力に対するものなのか。実際の所は混同されていることが多いように思う。
コメントする側が期待しているのは「出力」が変化することである。
全く同じ入力を与えても、役者によって出力は変わる。まるで正反対の挙動を示すこともありうる。
役者一人ひとりが個別のシステムであり、入力を処理する身体が異なるからである。
だから、理論的には、稽古における要望やアドバイスは出力の観点でなされることが望ましい。「こう見えるようにして」「観客がこう感じるようにして」「今はこういう風に見えている」という言い方になる。
入力の観点で話をしても、あるシステムでは期待通りの出力が出ても別のシステムではそうはならないといったことがままある。トライ&エラーの手間が大幅に増えて効率的ではない。
しかし、出力の具体像を共有する作業はとても難しい。
誰もが同じ状況を思い描けるように言語化できるレベルであればよいが、そうではない、微妙なニュアンスを出力することを求められることが多い(そしてそれこそが役者・観客双方にとっての演技の醍醐味である)。
出力ベースで話をするのが困難な場合、我々はしばしば入力ベースで演技の話をする。
「ここでこの役はこういう気分のはずだから」「あの役があのトーンでセリフを言ったのを感じ取って」というような言い方になる。
入力ベースのアプローチは全く悪いものではない。次のような場合に特に有効である。
・どんなシステムにせよ、出力の方向性が大きく変わらないと期待される場合
・システムの差異による出力の差異に魅力または可能性を感じている場合
・出力ベースのコメントでは期待する出力を引き出せそうにない場合
出力ベースのアプローチを続けても、出力イメージの摺り合わせがうまくできないとお互い不幸になる。入力から考えてやってみたら案外「それええやん」となるケースも多い。
一旦ここまで
このモデルに照らし合わせて「レベルの高い役者とは何か」を考えてみたいけど、まだぼんやりしているのと、長くなりそうなので一旦ここまで。
システム科学はとても抽象的だけど、そこがいいところで、物事の本質をじわじわと炙り出すような、そんな学問だと思っている。もうこの分野を離れて数年経っているのであまり大それたことは言えないけど。
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