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謎解きのテキストをがんばった話と、文章を書くということ

「謎解き」がかなり厚い地盤を持つカルチャーになりつつある。その筋の人たちほど「謎解きラヴァー」というわけではないが、謎解き企画の運営側としてはかなり濃密な経験をさせてもらった。

過去に二度、「勤勉論部」という団体名義で京都大学の学園祭で謎解き企画を出展した。

2017年『祭は短し脱出せよ乙女』※リンク先は解説ページ、疑似再現プレイが可能

2018年『スイート・ノベンバー・ブルース』※リンク先はプレイ用キットの販売ページ

謎を作ったわけではなく、これら二作のメインテキストを担当させてもらった。
この役割は自分でもなんと呼べばいいのか実はよくわかっていなくて、二回とも代表には「テキスト」という役割でのクレジットをお願いした(お願いしたのだが、そのお願いを忘れられて「脚本」とか「シナリオ」とかでクレジットされそうになった。一応書いておくと、作品のあらすじはメンバー全員で考えていた。僕がやったのは、ユーザーの目に触れる「本文」をそのあらすじに沿って書いた、ということである)。

この「テキスト」という不思議な役割や謎解き自体の話もそのうち書きたいと思っている。
前置きが長くなったが、ここで書きたいのは、この経験によって僕はかなり自信がついたんだよ、ということである。

上記二作はどちらも、参加者が大学のキャンパスを回りながら、専用ウェブサイトに表示されるテキストを読み、そのテキストで展開されるストーリーに沿って謎を解くという形態をとる。こう書いてみると、プレイヤーにすごい量のアクションを要求している。これを受けて入れてくれているプレイヤーの皆さんはとても優しい。
ありがたいことに、どちらも「ストーリーがよい」という評判がよく聞こえてきた。テキスト担当として、その「ストーリーがよい」には大いに貢献できていると思うので、素直に嬉しい。

祭は短し脱出せよ乙女

言うまでもなく、某小説のオマージュ作品である。色々とアレなので詳しくは触れないが、オマージュ元作品の雰囲気を出すために「文体の模倣」が必要だった。結果として、とても模倣しきれたとは思っていないが、元作品のファンから苦情が来るような事態は避けられたので一安心である。

馴染み深くも魅惑的な世界に降り立つと、とても心細くなった。良くも悪くも、孤独な作業だった。小学校のプールの授業のコイン拾いのような作業。要素を拾い集めて、浮上しては少しずつ再構築する。そしてまた潜る。
孤独だったが、その分「これは俺が拾ってきたんだよ!」という自負は持てていたと思う。ただ、それが受け入れられるのかが最後まで不安だった。
この企画のときは仕事も立て込んでいて、テキストを提出した後はネット上に流れてくる評判を東京から眺めているだけだった。遠い京都の地から届く賞賛のコメントを聞いて安堵したことを覚えている。

「自分が面白いと思うこと」と「世間が面白いと思うこと」、そんなにズレてないぞ、という実感を持つことができた。拾うコインのチョイスは間違っていなかったし、そのコインを使った作品に意味を見出してもらうことができた。
これは謎解きに限らず、最近の生活におけるある種の自信につながっている。過信して周囲に不当な同調を求めることは避けたいが、自分の中で「確かな手ごたえ」が生まれたときには、堂々とそれを信じてやろうと思っている。

スイート・ノベンバー・ブルース

こちらはオリジナル作品。実際の京都大学を舞台としてスペクタクルに溢れたストーリーが展開される、二部構成の大作である。
オリジナルな分「なんでもあり」なのだけど、逆に落としどころが分からなくなり、そこに構成の複雑さも相まって、あらすじの確定までにメンバー全員がかなり時間を費やした。
しかし一度固まると、テキストの作業としては意外と順調に進んだように思う。まあ、傍から見ているととても順調には見えないペースだったかもしれないが、自分の中では、一歩ずつズシリズシリと前に進めている感覚があったのだ。
ここで「ズシリズシリ」というオノマトペが出たので、やはり順調だったというのは嘘かもしれない。歩みは遅かったのだと思う。一歩出すのがしんどかった。『~乙女』のときとは違って、「持っているカードで勝負するしかない」というのを痛感させられた。

『~乙女』もそうだが、結果として出来上がったテキストそのものは、ジャンルでいうと「小説」に近い。そういった文章を真面目に書いてみると、人間というのは本当に、それまでに触れてきた作品や言葉が血肉になっているのだと思った。
仕事から帰り、深夜にPCを立ち上げてエディタと向き合う。展開に似合う言葉を探していると、どこかで使ったようなフレーズばかりが浮かんできて辟易する。この自分の世界と向き合う作業は、かなりしんどい。月並みに、もっと本読んどけばよかったなあとか思ったりしたけれど、「急に筋肉が膨らむ訳もなし」と、開き直って前に進むしかなかったのだ。

ただ、自分の中にも世界があるのだと実感できたのはとても嬉しい。なんとなーく、上っ面の借り物で勝負して生きてきたなあという感覚があり、なんとなーく、それに引け目があったのだけど、血肉になっている世界はあった。小さな小さな世界だけど、ちゃんとあった。
そして、自分にもあるのだから誰にでもそういう世界があるはずだ、という当たり前のことに気づいた。悪趣味だけど、誰かが言葉を吐くのを見聞きすると、その人が食べてきたモノをなんとなく想像するようになってしまった。

Next......?

そもそも次にこういう機会があるのか全然分からないが、上記二作で今出せる分はすっかり出し切ってしまった感はある。周りにドラマや舞台の脚本を書く知り合いが何人かいるが、「一作目より二作目の方が(書くのが)難しい」という声をよく聞く。今なら少し分かる気がする。
ちょっと違う側面として、身体的なしんどさもある。上記二作のときは、仕事から帰宅した後に睡眠時間を削って執筆をするという生活を続け、相当身体を痛めつけた。休みの日の明るいうちにまとまった時間をとればいい話なのだが、これがなかなか難しい。
思考の搾りカスを見た目だけ綺麗に整えるような作業である。意外と、丸一日他の活動をして頭がごちゃごちゃしているときの方がこの作業が捗ったりする。少なくとも自分の場合、この自分の世界と向き合う作業というものは深夜にしかできなさそうだ。
しかし、自分と向き合う作業は続けた方がいいんだろうなという漠然とした感覚はある。まだ上手く言葉にできないが、この作業は人生に何らかの効用があるはずだ、という予感がある。隙を見て、身体とうまく折り合いをつけながら続けていければと思っている。

最後にとってつけたようなことを書くが、上記の過去二作の好評ぶりは決してテキスト(ストーリー)によるものだけではなく、当然、良質で芸術的な(本当にこう評されている)「謎」があってこそで、僕も本当にそう思っている。「勤勉論部」の謎クリエイターはすごい。
この謎とストーリーをどう結び付けるか、というところが実は一番頭の使いどころだったりして、そしてそれこそが、今後ここで書いてみたいテーマの一つだったりする。

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