神人A - 霊的な神性を持つ者

第二部 全17篇 了

生霊である心霊。
細菌である悪霊。
昆虫である精霊。

人々を支配しているのは昆虫だ。
悪霊である細菌はバインダーとしてやアクチュエーターとして機能する事は以前書いたが、細菌が納得して宿主の特化した機能として生きる事を選ぶ事は稀であり、支配的な性格を有する淘汰されない存在。昆虫も然り。
日常近くにいる虫たちは、花壇や庭に於いて無害な様に感じるが、その個性はより精神的な特徴を有して凶悪な者もいる。蝶、団子虫、ゲジゲジ、小蝿、蜻蛉、天道虫など。
テレパサーなら分かるがこれらの虫の性格は、知り合いなど虫に取り憑かれてる人間の性格で現れて何者か分からない存在として今まで知られてきた。よく言われる虫の知らせというもの。これはそれらの存在からの聞こえる様で聞こえない声。
この者たちの言語がテレパシーなのだ。
科学的にも実証されないはずがわかる。
虫の声を聞く。それは信じられない話だが、風や空気、植物や花、バイクや人形の声を聞く者にとっては普通の事。サイコメトリという。
遠隔サイコメトリや人格サイコメトリがある。
触らずとも記録を読める他に、人格変換して物や生物から情報を会話形式で読み取る術。
人間がそう言った声を聞いたり会話する時、
テレパシーかサイコメトリの2種類の方法がある。
サイコメトリで会話する人間は唯一人類で私しか居ないが。一般人のテレパシーは完全に昆虫の声しか入って来ないし、そのコミュニケーションの内枠に入って虫の知らせが聞こえても何の価値もない。以前書いた氏子霊が虫の知らせの主である昆虫。私の理論では、対外的な霊的に関する事を全て行い、裏で口裏合わせの様な事をしているのが代行霊であり、その存在が昆虫。
細菌とは人一体に纏わって棲み分けが為されている。テレパシーの会話をすると、一体何者なんだ、と幻聴に困るが、その存在は昆虫なのである。細菌の場合は、サイコメトリで人格化しないと会話や情報のやり取りが出来ないので一般的には関係がない。
よく悪魔憑きや霊に取り憑かれた者をお祓いする、又は出て行かないで暴れて苦しむ、や代わりに語り出す事がある。
これは、大半が水子の霊。
細菌に取り憑かれても人生が変わったり顔つきが変わるだけで勝手に霊に取り憑かれて喋り出したり出て行かないで暴れ出したりの様な壮絶なお祓いにはならない。
昆虫はテレパシーがうるさいだけ。幻聴。
幻聴の手引きを読むと中世ヨーロッパの絵で、男が耳を押さえて逃げているところを妖精が騒ぎ立てている物があるが、あれは羽虫を擬人化した物だろう。
幽霊は死んで500年までは人前に現れる事が出来る。人間だった分、人には手出ししない。
500年経った霊魂が人に憑く場合もあるが、
通常の人に憑いてるのは昆虫。
水子は実体経験、社会経験のないまま人間として大人になろうとして霊として居るので、知能、性格は子供で、声は大人だ。聞き分けが全くない。
大人かと思えば、とんでもないガキの言う事を平然と口にする。そういう者たちだ。この者が恨みを持ったら厄介だ。出て行かないで依主に言葉を語らせ人格を奪う。そこまでするのは怨みを抱えた水子の霊。
本来、幽霊が、存在していた者の意思が残った者だと考えるのは自然ではない。では何か。
前章でも書いていた幽霊の正体、なぜ現れるか。
幽霊とは洋服に宿る者。要は洋服という一番身近な布、衣服は人格を宿す。
私がサイコメトリで会話するにあたりあらゆる物の意思を会話で読み取る事は一般の人間にとっても感じ得る微弱な思考電磁波なのではないか。
思考電磁波と書けば簡単だが、人が死に脳内の神経伝達物質ドーパミンが浮遊し存在していたら、わかる話だろう。電子形式の思考が我々の思考回路、シナプスと受容体に混ざる。
サイコメトリで情報摂取するタイプの人間は私だけだろうが、普通の人間はテレパシーの才能が芽生えるとより感度が高くなり敏感に意志を感じ取る。水子の霊はドーパミン。
ドーパミンが衣服に付着して幽霊。
死んだままの姿が幽霊ならば衣服を着ているのはおかしい。姿を現さない幽霊は衣服を持たないと、当然考える。
この世に身に付けていた衣類が残っていて、又は使っていた物が残っていてそれに思考を宿す。
生前からドーパミンが体外に漏れて付着していた。物や生物から読み取るサイコメトリか、又は思考を受け取って翻訳変換しているか。その違いである。

因みに昆虫は人生のタイプをも変える。
大麻が好きなヤクザラッパーがいるが、大麻が好きなのは蝉。蝉は命が短い。終わる人生に花火を上げる様な人生になり、棒に振る。
大麻を吸って平気なのも、何も精神的な強さや問題でなくただ単に蝉だからだ。

神とは。以前にも書いたが、概念が認識された時に語り出し特殊能力者なら話すことも出来る存在。そもそもその神が認識されて話をしたいと思うほどの人間か、という事があるが。
細菌、虫、植物、花、風、物質。これらに人格を宿らせ話を語らせることができる者なら、概念や文章、または書に著者宜しく語らせることもできておかしくない。
このように、何も語るべき内容に新しい概念やオカルティスム的思考法を持たなくても、ある物、存在している物で結果的に語れる事しか起きていないのが現実。
私の理論は話せば分かるし理解の範疇。
だが、私の感覚的に話す言葉に価値があり、誰にも真似できない論理を生み出す。そう言った人間が神性を帯びていると認識される事において、正しく世界を認識している事において、人間扱いされる、人間たらしめる。神というのは自由だが、私のような人間は、神たる考え、神たる行い、神たる人生はさもあらん、という人間としてやっと一人前扱いされるし、事実個人たり得る。
それが事実上外面的にも内面的にも神であるという事なのではないか、と思う。

因みに透視能力やサイキックは、本人にとってしか能力化出来ない行いであり、能力というより行い、行為だ。言う事が当たってるという行為は、正しい世界を正しく見て、言うこと成す事、全て真実、という人間にしか出来ない。

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