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1980年代 MSXコンピューター〜コンピューターミュージック黎明期とYAMAHA CX-5〜DTM&DAWの歴史 その1

現代の業務用音楽制作現場で、コンピューターが使われていない現場は、まあないであろう。演奏がすべてアコースティック楽器による生演奏であっても、録音機そのものが既にパソコンだからである。

世界中のレコーディングスタジオでProtools(プロツールス)というレコーディングアプリケーションが標準となっている。1990年代までは、48チャンネルのテープレコーダーだったものが、今世紀の初めまでには完全にプロツールスに取って代わられた。

デジタルとアナログレコーディングの違いによる音質の優劣は別にして、時間効率、経済効率も含め、利便性が最優先された当然の流れであった。
プロツールスのようなアプリケーションは「デジタルオーディオワークステーション」これを略して「DAW」と呼ぶようになった。

一般的には、シンセサイザーによる演奏データのプログラミングとボーカルや楽器などの録音や編集を統合して行えるが、実用で録音機能が使えるようになったのは、20世紀の終わりのことであった。それ以前は、MIDI情報による演奏データだけをプログラムするもので「シーケンスソフト」と呼んだ。

では現代のDAWという形態に至るまで、音楽制作現場で使われるコンピューターの原点はどこになるのだろうか?

シンセサイザーによる自動演奏のみに焦点を当てれば、原点は1960年代まで遡ることになる。これはアナログ方式の「シーケンサー」と呼ばれる機械からスタートする。だが、現代のようにPCを使用する形態で、しかも入力インターフェイスが市販のアプリケーションを介するということに焦点を当てるならば、そのひな型は1980年代なのである。

パソコンの音楽制作用ソフトウェアが発売されたのは「MIDI規格」の製品が発売された1983年以降のことである。

最初に世に出たのは、同年1983年発売のMSXパソコン用のROMカートリッジ「YAMAHA FMミュージックコンポザー」だったと思われる。私が知る限り、業界定番のアップルマッキントッシュ(Mac)とNEC PC9801の最初の音楽用ソフトウェアが1984年であることから、それが正しければ、やはりYAMAHAが世界初ということになる。

そもそも「MSX」とは何か?

特に若い人は知らないと思うので、簡単に説明すると、これも1983年に出た8ビットパソコンの共通規格のことである。ファミコンのように、アプリケーションの入ったROMカートリッジをスロットに挿して使う方式のとても簡単に使えるパソコンだった。ほとんどの製品は、写真のようにキーボードと本体が一体化していて、これにテレビを繋げればセット完了である。

ちなみにデータのセーブは、コマンドプロンプト画面にコマンドを打って、データ専用のカセットテープレコーダーに「ピーヒョロヒョロロロ〜」という音を録音してデータ保存が完了した。

YAMAHAのCX-5は、そのMSX規格のパソコンをMUSIC COMPUTERと称して、独自の拡張スロットにFM音源ユニット兼MIDIインターフェスを増設して使えるようになっていた。

私がCX-5を手に入れて使い始めたのは、発売の翌年1984年のことであった。この年の初めにMIDI規格のデジタルシンセサイザー「YAMAHA DX7」を手に入れるが、その直後に多重録音のシーケンスを組むために追加購入したものである。

当時の私のデモテープ制作方法は、カセットウォークマン2台を使って、キーボードを弾きながらダビングを繰り返して多重録音していたが、多数のパートを打ち込んで同時再生することでこれを避けられると考えたのだ。
デジタル世代の若い人はピンとこないかもしれないが、ダビングを繰り返すたびに音が劣化して、曲が完成した頃には、その音質はとても酷いものになっていたのだ。このダビングの回数を減らすことが当初の目的の一つであった。

ROMカートリッジ「FMミュージックコンポザー」のトラック数は全部で8パート。増設したFM音源ユニットも最大8パートである。ただし、最大同時発音数も8音、つまりどこかのトラックで和音を使ってしまうと、発音数が足りずに8パートは使えないということである。

専用のキーボードを使って、五線譜に音符を置いていくが、一貫して現代のものとは比べ物にならないくらいやり難いもので、ものすごく時間がかかった。そして、打ち込みに時間がかかるだけではなかった、これでパート数を重ねていって再生すると、なんと曲の途中から演奏がずれてしまって曲が崩壊してしまったのだ。

CX-5で制作を始めていきなりの失望感である。

おそらく、連続した16分音符のシーケンスフレーズと和音の刻みの組み合わせに、処理が追いつけなかったのである。

結局のところ、このセットだけで制作可能な音楽は、ファミコンのゲーム音楽のようなチープなものでしかなかった。とてもプロのレコーディング現場で使えるシロモノではないことは明らかだったが、それも当然である。

アップルマッキントッシュコンピューターが当時の価格で約100万円。日本製のNEC PC9801も50万円以上の時代である。その中でMSXパソコンは5万円〜7万円程度だったのだ。まさにファミコンに毛が生えたようなものなのだった。

仕方なく諦めて、パーカッション系とベースだけ、やってもエレピの4分音符刻み程度までに使用を制限して使っていた。結局打ち込みは、価格43万円と高額ではあったが、ハードウェアシーケンサーのYAMAHA QX1を買い直して行うようになり、CX-5はDX7の音色エディターとしてだけ使うことに落ち着いた。だからと言って音色エディターもそれほど使い勝手が良いわけではなく、DX7本体の小さな画面で音色を作ることに慣れて最終的にはすぐに使わなくなってしまった。

MSXのシステムは合計で10万円ほどだったが、制約のある中で工夫して作る技術を得るには良かったと思っている。以来MSXパソコンを買ったのは一度だけで、大学在学中に音楽の仕事を始めてからも、けっこうな長期間、YAMAHA QX1や、主にはRoland MC500というハードウェアシーケンサーを使っていたものである。

1980年代の中頃は、明らかにDX7を使ったとものとわかる打ち込み音楽で溢れていたが、これらをコントロールしていたのは、まだまだパソコンではなく、ほとんどが、ハードウェアのシーケンサーやリズムマシンによるものであったと思う。

90年代初頭までのMACの動作はいつも不安定で、当時のOSではフリーズすると「爆弾マーク」が出たものである。とても怖くてスタジオでの作業などできなかった。バブル期前後などは使用料が1時間3万円〜5万円もするレコーディングスタジオである。MACがフリーズすると、再起動までの時間と作業が大きく無駄になってしまう。「一分千円もするんだぞ」とプロデューサーに怒られてしまうのだ(笑)

最後に、MSX MUSIC COMPUTER CX-5についてまとめると、これは最初からプロのレコーディング現場での使用を前提としていなかったということである。

音楽雑誌の広告には、いかにも凄そうなDTMシステムのように描いてあったが、実際のポテンシャルはそういうものではなかった。
その分、本格的な音楽制作には、QX1という非常に優れたハードウェアシーケンサーが同時に用意されていて、棲み分けはできていたのだ。

当時はまだ「デスクトップミュージック(DTM)」という言葉はないが、YAMAHAが目指したのは、まさにアマチュア向けのDTMの普及だったのではないだろうか? 振り返ってそのことに気づかされたのは、1988年に発売されたのローランド社の「ミュージくん」という製品であった。ここで初めてDTMという言葉が生まれた。


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