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ブガッティ・ヴェイロンに公道で遭遇〜近年の1000馬力スーパーカーの存在意義を考えてみた

もう数年前のことになるが、私は一度だけブガッティ・ヴェイロンに公道で遭遇したことがある。
フェラーリやランボルギーニ、それにマクラーレンなどは、東京の六本木や麻布近辺では一日のうちに何台も遭遇して珍しくもなんともないのだが、ブガッティが実際に走っているのを見たことはなかった。
今ではさほど驚かないが発売時は約2億円という値がついており、非常に希少なクルマである。一回でも走行中に遭遇できたことは奇跡に近い。

それは、首都高4号線上りを幡ヶ谷インターから合流しようとした時に、私の運転するをフォルクスワーゲンの左側をまるで飛行物体のように通り過ぎて行った。
一瞬目を疑ったが、その物体がヴェイロンであると気づた時には後を追う体制になっていた。
うっすらと曇った昼間の時間帯だったが、ちょうど他のクルマが一台もいない珍しいシチュエーションである。
ここでボディーカラーを書いてしまうと、所有者個人を特定してしまう可能性があるので書かないことにする。だがそのヴェイロンに追いつくことは叶わなかった。

後をついて行こうとベタ踏みで加速すると、気づけば3速のレブリミットなどとっくに通り越して、4速でもかなりの高回転になりかけているが離されていく一方である。すぐその先に新宿の右タイトコーナーが迫っていた。
ヴェイロンは楽々余裕でクリアしてずっと先にいる。次の代々木の左コーナーから先は完全に見失ってしまった。左コーナーを抜けるとさらに2コーナー先まで見通せる場所にもかかわらず、そこにヴェイロンの姿はなかったのだ。

あれはクルマではない。NASAが捕まえた宇宙人の乗ったUFOだ。
そう思い込むしかなかった。
ヴェイロンにしてみれば、速度域半分程度の余裕すぎる走りだったと思う。
何しろ400km/hの最高速を出すための1001馬力のエンジンを搭載したクルマなのだ。

ブガッティはヴェイロン以降のモデルとして、さらにパワーアップした1500馬力のシロンへと続くが、400km/hの最高速などいったい誰が必要とするのだろうか?
EV2000馬力のロータスエヴァイアは330km/hのリミッターを設けている。
だが最高速競争をやめたとしても、近年のスーパーカーのスペックは驚きをとおり越してもはや爆笑してしまうものばかりである。
エコロジーはどうした?・・・なのである。

最新のPHEVは内燃機関に電気モーターも加わってシステム1000馬力、エンジン部分単独では800馬力程度。
エコ目的のはずの電動化は、より速く走るためデバイスとなった。
0→100加速は3秒以下になるが、これはいきなり最大トルクが出る電気モーターの力が大きいということである。
しかしそれにしても、公道でスーパースポーツを運転して、加速力については「さすが800馬力の加速!」とか「1000馬力はすごい!」と叫ぶには無理がありそうだ。

まず一般道の路面μと現行のタイヤでは、低速ギアの加速で、そのハイパワーを受け止めることはできないはずである。
電子デバイスによってパワー制御されているか、ドライバー自身でアクセルを戻す以外にない。
おそらくそれは、すでに巷に多くある500馬力以上のクルマでも同じことが言える。
ワインディングロードを走っても、2速や3速コーナーからの立ち上がり加速では、派手にタイヤを空転させて白煙をあげなからのドリフトでもしない限り、500馬力を発揮する場所はないと思われる。

私がそう思ってしまうのは、日本車には280馬力自主規制の時代があったが、それでさえかなりのハイパワーであり、昭和時代のチューンドカーでは、湾岸最高速仕様のフェアレディZやRX7で、中間加速2速、3速のスピードレンジでもホイールスピンをしていたからだ。
夜中の倉庫街で信号ゼロスタートしても3つ先の交差点までホイールスピンしっぱなしである。当時友人の最高速仕様車に乗せてもらっているが、おそらく300馬力程度だったと思われる。

80年代とはシャシーやタイヤの性能が違うにしても、やはり電子的な制御がなければ、300馬力程度でも路面を捉えるのは簡単ではないはずだ。
ということは、電子デバイスによって確実にパワーは抑えられていて、常用スピード域ではカタログスペックのパワーは出ていないことになる。
スーパーカーは電子制御の介入があっても、制御しきれなくてクラッシュ事故が起きているくらいだ。

ではそのパワーはどこで発揮されるのかと言えば、200km/hくらいから上の加速と最高速のためということになる。
単純にざっくり内燃機関500馬力で300km/h以上、1000馬力で400km/h、さらには2000馬力で500km/hを出すためのものであることは、誰もがわかっていることであろう。

それをどこで出すのか?という話だが、日本一の高速サーキットである富士スピードウェイでも最高速を出すにはストレートが短い。
湾岸、アクアライン、東北道などで300km/hオーバーの最高速到達は物理的には可能だが、逮捕レベルの道交法違反である。
まして、400km/hを出すための1000馬力を発揮させる機会は限りなくゼロに近く、500km/hに耐えるタイヤは存在しない。
これはもう世界中にいるユーザーの需要などではなく、開発メーカーのプライドのためであることは明白である。

スーパーカーあるいは、ハイパーカーをスポーツドライブを目的にして走らせるには不要な部分が多いと言える。
サーキットでもワインディングでも、使いもしないパワーのために重いエンジンや、パワーに見合う強化された重いパーツを積んで走るわけだから、非常に効率が悪いことになる。
だから現代のスーパーカーは、レーシングカーを公道用にデチューンしたようなスポーツカーではなく、インテリアも豪華な直線番長GTであると解釈すべきなのであろう。
だとしても1000馬力である・・・

世界三大無用の長物であるピラミッド、万里の長城、戦艦大和と並び、これに現代のスーパーカー&ハイパーカーを加えたいところだ。

では、スーパーカー&ハイパーカーに存在意義はないのか?ということになるが、これを否定してしまうと、人間の文化や芸術あるいは宗教も全て否定することになってしまうかもしれない。

宝石など装飾品、煌びやかな教会などの建造物、絵画、彫刻などの芸術品、全てのスポーツ競技と記録・・・
人間が猿と違うのは、生物として生存することだけを目的として生きていないところである。
それが文化芸術であり、文明の付加価値の部分だ。

自動車は人類の生活を非常に便利にした革命的発明だが、目的以上に大きな精神的付加価値のついた工業製品である。
表現が難しいが、デザインの美しさや速さを求めるのは、人間がクルマに畏怖すべき何かを感じとっていて、神の世界に近づこうとする行為のようにも思える。
西洋キリスト教文化圏的にたとえれば、ハイパーカーとはまるでバベルの塔なのである。

また、資本主義社会においては、クルマは豊かさと自由の象徴でもある。
ただ一方で、際限のない人間の欲望の象徴という捉え方もあるだろう。そこには背徳感や快楽主義という言葉も含まれる。
私には、神に近づく崇高なる要素と、現世の俗物的な要素が紙一重で共存しているように思えるのだが、文化や芸術とはそういうものではないだろうか。

逆に、クルマは動けばなんでも良い、住居は雨露が凌げれば良い、衣服は着用できればなんでも良いという考え方は、猿に近づくことになる。それは物理的な肉体的の生存本能をベースにしており、精神的付加価値の部分を否定しているからである。

まあなんだかんだと結局クルマという工業製品はどこか幻想の上に成り立っていると言える。正しく完璧なものなどこの世に存在しない。
現代のスポーツカーはロマンをかきたてるエンタメである。
華やかさと美しいデザインやV12の官能的なサウンドとフィーリング。
そして、度を越した強烈なスペック。
それは、どうでもいいものに贅をつくす貴族の戯れであり、美意識であると結論づけてしまおう。
一言で言ってしまえば、あまりに美しくも馬鹿馬鹿しい存在であることがスーパーカーの魅力であり、存在意義である。


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