1275_個人と集団
「なんか、僕の甥っ子なんですけど、変な起業家集団的な?変な奴らに引っかかって、そこから抜け出させるのに家族がだいぶ苦労したんですよ」
「ああ、最近そういう話あるよね」
そんな会話を聞いた。
個人が、なにか悩み事や困難が生じたときに、何に頼るかという問題がある。パートナーや家族、友達や会社の同僚などが選択肢にあがるのが普通であろう。
でも、そこに例えばある種の宗教という選択肢が存在する人たちがいるとする。伝統的にキリスト教的なバックボーンのある欧米に比べ一般的な日本人からすれば、ギョッとするかもしれないが、要は自分が頼る先に、ある意味、他人の集団があるかどうか。
現代の日本人にとって、ある一つの目的に元に集った共同体のようなものが、個人の問題解決のための方策としての選択肢に入るかどうかという話。
たまたま、宗教という言葉を使ったのだが、またこれも時代や背景によってその形は様々である。昔の村の寄り合いにも似た牧歌的で地域宗教にも似た「お寺さん」といった緩やかなものから随分と変化した結果、カルト的な新興宗教なものを経てますます変質している。
今では、スクールとかキラキラしたセミナーとかオンラインサロン、様々なネットでのコミュニティとかがその役割を担っているのかもしれない。
大いなる「個人の時代」を生きざるえない我々にとって、集団で生きることのメリットデメリットを超えた「価値」のようなものを考えることがある。昔の熱血スポーツドラマのような「one for all.all for one」を体現するような。
強力に個々を束縛する一種の宗教じみたコミュニティを、現代人は実は潜在的に渇望しているのではないか、とふと思ったりする。目を向けまいとすると逆にどうしてもみたくなるように。忌避するとともに、強烈に惹きつけられてしまう。
だから、若い子は簡単に詐欺集団に引っかかって洗脳されちゃうんじゃないだろうか、と考えたりする。