1044_親父の日記
「ああ、しまった。あれは、残しておけば良かったな」
ホットカーペットの上にゴロゴロと寝転びながら、文庫本を脇に置き、ひとり宙空に確認するように呟く。
小説の内容は、死者と一度だけ会うことができるというものだった。作中、死んだ家族や友人にどうしても確かめたいことや話したいことがある人間ばかりが出てくる。
なんで、あのとき、捨ててしまったんだろう。断捨離気取りで物を捨てて、後悔したのは少しばかりはあるが、取り返しのつかなさではこれにかなうものはなかった。
それは4年前に死んだ親父の日記だった。親父が死んで1ヶ月も経たないうちに、母親が渋るのも構わずに全て処分してしまったのだ。よくよく実家の片付けに精を出していたので、抵抗はなかった。
親父は几帳面な性格だった。中学を卒業して、学校に通いながら電力会社に45年間勤めあげた。職業柄かガスの元栓や鍵の開け閉めなど、何事にも確認を怠らない。何回も何回も父親が確認する姿を見て、そういう病気なんだろうというのが家族皆の見解だった。
そんな親父が毎日つけていた日記帳。作業日誌と同じなのだろう。親父の遺品を片付けていた時に、日記の内容を一瞥したが、「○月✖︎日晴れ 仕事に行って7時に帰ってきた 大丈夫」のような断片的な文章が断片的にびっしりと書き込まれていた。
果たして何が「大丈夫」なのかわからないが、しきり「大丈夫」と書かれていて、たぶん親父の中でのキーフレーズのようなものなのだろうか。読み返すこともないだろうということで、そのときすべて捨ててしまったのだ。
だんだんと歳を取って、40歳、自分が物心ついて子供の頃に見ていた親父の年齢に近づいてきたとき、己の存在の根底にあるもの、ルーツというか、木の幹にあたるようなものに触れたいと思うことがある。
そのひとつは、今は亡き親父の存在だった。死に目には会えたが、親父とちゃんと話したことはない。なにしろ、話が通じなかったから。それでも、親父という存在が自分に与えたもののその実体を知りたい、という気持ちが沸々と芽生えてくるのを感じる。俺が俺が、と思っていた若い頃にはなかった、感情だった。
今思い出しても、親父の考えていることはわからない。日記にも意味のあることが書いてあるとはとても思えない。だが、親父が生きているだ間に日々何を思い、いったい何を書き記そうとしたのか、ただそれだけを知りたいとだけ思う。今、自分がまさにこのnoteに書いているようなことを。