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354_Bob Dylan 「The Freewheelin' Bob Dylan」
平日は文字通り身を粉にして働いて、土日にやることと言ったら、身ひとつでのソロキャンプしかない。なんてったって行くも行かまいも自分次第、誰の予定も気にする必要もないからか、なんとも気楽なもんだ。11月の山の空気は冷えるが、幸い今日は天気もよかった。大学は登山部だったので、あらかたの道具は揃っていて、どれも手に馴染んで使い勝手も十分にわかっている。一人分のテントと食料を詰め込んだリュックを助手席に乗せて、秩父の山奥に分け入っていく。かかる費用は2泊3日の一人分の食料代とガソリン代とキャンプ場の料金が少しばかり。
他人からは、お金もかからないいい趣味だというかもしれないが、果たしてこれを行うことが自分にとってプラスになっているのか、マイナスになっているのかということはわからない。すでに同世代の人間はとっくに結婚したり、子どもをもうけたり、家を建てたり。人生のステージというものを順番に上がっていっているのだという。僕は人生で何を為したかだなんて声高に言うつもりはないが、飛蚊症のように周囲のノイズは日増しに増えていく。
SNSなどはもうとっくに見るのをやめて、最後の更新も3年前で止まっている。「5年前、あなたはこんな場所でこんなことをしていました」と、どうでもいい通知が来るのが鬱陶しいが、通知の設定の変え方がわからない。昔、子どもの頃に家族親戚が集まってやった人生ゲームを思い出す。果たして、自分は今どこのコマに止まっているのだろう。
叔母は義母の介護に疲れて、人生に意味が欲しくて周囲の反対もよそに新興宗教に入信した。従兄弟の妹はマッチングアプリで運命の男性を探し続けて、ひたすら「いいね」と付けてくれた男性とのメッセージの往復に空しさを感じている。職場の後輩は「自分の人生を自由に生きるためのセミナー」とやら足繁く通い続けて、投資や副業に精を出している。本屋で並んでいる本のタイトルは「これだけやれば大丈夫」「絶対にやってはいけない3つのこと」なんかが多数。結局、やっていることは皆同じ。みんなが皆自分の止まった途中のマスの中で、なぜ自分がこのマスに止まっているのかの答えや意味を求め続けているんだろう。
でもよくよく考えてみれば、そういった人生の中でクリティカルなものばかりでなくても、僕たちはいつも答えのない問いに常に苛まれているのかもしれない。「子どもは私立に行かせるべきか、公立に行かせるべきか」「お金は投資に回すべきか、貯蓄すべきか」「収入が低くてもやりたい仕事を優先すべきか、安定しているけど退屈な仕事をすべきか」誰もが答えを求めて、もがいている。自分以外の誰かがその答えを持っているんだろうと思って、いろんなところを探し回る。シンプルで簡潔な答えを提示してくれる人を崇め奉って、その人の言うことを盲目的に信じようとする。
今まで生きてきて、絶えず正解や答えを求め続けてきたし、それがやるべきことだと思った。自分の親も含めて、周りの人間も同じことをやっていたし、同じ考え方をしていた。いい学校に入って、いい会社に入って、安定した収入を得て、結婚して子どもを作り、定年まで一生懸命働いた後、定年を迎えた老後は慎ましく豊かに暮らし、孫との時間を一番の楽しみして、やがて一生を終える。
それはあくまで、それは答えなようなものであって、厳密には答えでなく最適解なんだ。最適解は最大公約数のための、もっとも多くの人に受け入れられる「答えのようなもの」でしかない。その大多数の人間にとっての「答えのようなもの」を学校で学んできたし、周囲の大人からもそれがもっともらしい答えなんだとそう教えられてこられて決してそれを疑うこともなかった。学校では公式を用いた数学の問題の解き方をちゃんと教えるし、テストには答えのない問題は出さないし、学校では答えのないことは教えない。
答えの求め方ばっかり教えてきたので、答えとはそもそも一体なんなのか、そんなものが果たして存在するのか、ということも含めて教えてもらえなかったじゃないか。義務教育は残念ながら、そんな親切なものじゃない。仕方ない、学校は答えのある問題しか教えない場所なんですと、誰も大声でそんなこと言ってこなかったし。そうやってそもそも解けない問題ばかりのリアルで残酷で人生ゲームに、問題の解き方だけを学ぶことしか知らない子どもを何人も無責任に送り出した。
たとえ、親や学校の先生や周りの大人にそんな答えのない問いをしても、はぐらかされただろう。「そんなことを考えているうちは大人になれない」とでも言いたげな表情を浮かべて。肝心の答えを返せるやつなんていないんだろうし、そして、そういった答えのないものが人生にいくつもあって、それにどう向き合っていくべきかについても、教えてくれなどはしなかった。
どっちも正解だと言われても、どちらが正解ですかと問い続けて、どちらも間違いだと言われれば、じゃあ正解はどこにあるんですかと問い続ける。人生には答えのないものもあると言われても、じゃあどうすればいいんですか、答えを探さなくてもいいんですか、人生にはなんの意味もないんですかと考え、迷い続ける。
人間はなんのために生きるのか。自分はどう生きるべきか。本当に自分が求めていることは何か。夢は何か。明日死ぬとしたら、自分は何をするのだろうか。人生で読むべき本100冊にも、人生を変えた誰々のスピーチの中にも、インフルエンサーのツイートにも、どこにも書いていない。どこにも答えがないのなら、探さなくてもいいんだろうか。でも探さずにはいられない。自分の生きている意義や生きがいとやらを見つけたくて、いてもたってもいられない。それが人間なんだ。そこにどう向き合っていくか、自分がどうしたいか、ただただ突き詰め続けるしかない。サバイバルナイフの刃を研ぐように、焚き火の薪に火をくべるように、小川に流れる水の冷たさを直に肌で感じた時のように。
一人用の焚き火に新たに薪をくべようと、アウトドア用チェアから腰を上げた瞬間に、奥の山々から吹き荒ぶ風に灰が巻き上がった。木々を大きく揺らし、フードの中にまで11月の冷えた空気が入り込んで、肌が途端に縮こまった。遥か向こうに臨む山々の頂上をとっくに白くなっている。ユニクロと登山用のインナーと何枚も重ね着しているのに、不穏な音を鳴らす腹の調子に、誰もいないキャンプ場に独り佇む寂しさも加わってか、少しばかり不安になる。
さすがに秩父のこの季節のキャンプは無謀だったか。ならばもういっそ山を下りようか、という考えが頭をもたげた。だが、ここで山を下りても何もすることなどないのだが。その瞬間に、この一人問答のなかにも、決して答えがないと言うことを悟った。