1020_生きる気力とはかなさ
母親と一緒にいる時間を、ひとしきり大切にしている。まだ大丈夫だろうか、と言う思いで実家のドアを開けて、「ただいま」と呟く。
母親の作ってくれるご飯。冬場はだいたい週一でシチューが出てきた。だんだん歳を重ねると、小麦粉でできたシチューが胃にもたれることを知った。だが、そんなことは関係なかった。人生であと何回食べられるだろうかと考えながら、その一つ一つに感謝しながら、一緒に二人だけの食卓を囲む。
母親はもう自分に新しい情報や考え方を示してくれることなどない。亡くなった父親との間でもそうだったのだが、だからこそ、どうしてもここには手に入らないものを求めて、この家を出て、外の世界に飛び出して行きたかった。
だが、外の世界を見たからこそ、無性にこの山間の雪深い故郷が恋しくなる。高速バスに乗りながら眺める道路脇の風景。それは、敷き詰められるように雪が積もった田畑や、人心地のない廃屋であったり、何気ない情景のその一つ一つに胸が締め付けられる気持ちがする。
浅薄な世情、中身がなくて上っ面だけのフィクションと幻想と虚構にまみれているが、ひとつだけ確かなことがある。それは人はいずれ、必ず死ぬということ。母親も死ぬし、もちろん自分も死ぬ。
単なる塵から塵になるだけ。人間一個人の存在なんて、後から見れば最初からこの世に存在していたかさえも疑わしく思えてしまう。10年後か100年後かわからないが、いったい自分の存在を思い出す者など誰もこの世になどいないのだろうに。
誰かに思い出してもらいたくて、生きているのでもないだろうに。後世に名を残したいからというモチベーションで生きに生きた先人たちもいたのだろうが、そんな人と自分と比ぶべくもない。そんなタチじゃないしさ、なんとなく生きているだけなのさ…、自分を含む大多数の人間。
父親もそうだし、母親の存在は、本人が亡くなったとて、自分が生きている限りずっとずっと覚えている。でも、自分にはそんな存在は今のところいない。そして今の今まで、少なからず自分と関わって、この世からいなくなっていった人たちを思う。
死を思うと同時に、そして、生きていく、ってなんだろうって。自分は死ぬまでにいったい何をするのだろう。人間は地球を支配しても、月に行っても、核爆弾を作っても。それでもなお、死んだらどうなるんだって、こんなことを死ぬその時まで考え続けながら、それぞれが絶対に死を迎えるんだ。
久しぶりにDJ krushとBOSSのCandle Chantという曲を聴いた。
そうだ、いつも思うと、生きる気力とはかなさが増すぜ。