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193_John Hicks「Hicks Time:Solo Piano」

5年前に父親が死んだ時に、あまりに突然だった。父親が入院した電話を母から受けたに、東京にいた俺は嫌な予感はしていた。でも、まあさすが大丈夫だろうとタカをくくっていた。父は山育ちで体が丈夫な方だし、酒とタバコはやめられなかったが、まだ75歳になったばかりでいきなり死ぬだなんて夢にも思ってもない。それはおそらく父自身も同じ気持ちだったろう。

すぐに帰ろうにも、なにしろ東京と島根だ。土地と土地の距離感は、心の距離にも比例するように思える。お互いその土地にいる人は相手の土地のことを、とても遠い場所だと感じるだろう。故郷から遠く遠く離れた誰も知り合いのいない場所で、俺は大学を卒業して足掛け18年間、懸命に歯を食いしばって、その場所で踏ん張ろうとしていた。故郷にいる奴らにも引け目がないようにするだけで精一杯だったのだろう。別にこの東京がが好きなわけでもないのに。島根の穏やかな山間を眺めているだけで心は落ち着くんだということを、その時の俺はあまり自覚してはいなかった。

肝心の仕事でも、懸命にもがき続けていた時期だ。給与はいっこうに上がらないのに、仕事の責任ばかりがのしかかってきた。どうしても先方との関係で責任者の自分は絶対に外せない案件でもあったし、一人不安定で厄介な部下も抱え込んでいて、内憂外患というか、色々と何かにつけて頭が痛かった。

ちょうど長男が中学受験の時期で家の中もピリピリしていた。なんてこった、どこにいようが、気持ちが休まらない。中年の危機という奴だろうか、全てがうまくいかないなぜこんな時に親父は入院なんかするんだ、という気持ちが先だった。問題ばかりが積み重なって、がんじがらめになっていたところに最後の爆弾が投下されたような気分だった。

木曜日に入院の報を受けて、まあなんとか土日にサクッと帰れればなんとかなるだろうと軽く思っていたところ、金曜日の夜に容体が急変し、父親はあっという間に逝ってしまった。俺は新幹線で移動中で、母と一緒に父を看取っていた姉からの電話でその知らせを聞いた。母はずっとその場に泣き崩れて動けなかったそうだ。

俺は、親の死に目に逢えなかったのだ。自分が生まれた時は、親の温かい眼差しに包まれていたというのに。死ぬときにそばにいてあげられない、というだけでなぜここまで罪悪感に苛まれるのだろう。結局、その場にいないというのは何にもしてあげられなかったというのと同義なんだと気付いた。自分は親不孝者だという気持ちだけが残った。

あの時、さっさと東京から島根に帰っていれば。というか、そもそも長男である俺が東京などにおらず、地元の島根に残っていて、両親のそばにいてあげれればよかったのではないか(姉は地元の隣町に嫁に行ったのだが、やはりどうしても違う家の人間になってしまったという印象がある)

父は生前ことあるごとに、俺に対して「いつか地元に帰ってくるのだろう」というようなことをやんわりを言った。俺は「仕事が忙しいからな」といったふうに曖昧にしか答えを返していない。あの冷たくてやたらと騒がしい都会の土地にしがみついていたとしても、結局のところ、俺は何かを手にすることができているのだろうか。父はやはり俺にそばにいて欲しかったのではないか。父の1周忌、3周忌を迎えるたびその思いは強くなった。

俺は葬式で呆然と1人残された喪主である小さな母親の背中を見て、母親にだけは絶対にそんな思いはさせまいという思いをずっと胸に抱いていた。そこから数年が過ぎて、45歳を過ぎて職場の早期退職に応募した俺は、晴れて会社から自由の身になった。それは全て、地元の島根に帰って母親のそばにいるためだ。

ここに至るまでいろんな逡巡があった。まず自分自身の家族との関係。妻としては、群馬にいる彼女の実父母の介護の必要性というのも切実に捉えていた。80歳を超えて義母が階段で転倒し足を骨折したことで、半寝たきりの生活を強いられる羽目になったのだ。必然的に我々夫婦は別居ということになり、間に残った長男だけが東京の家に一人残り、大学に通うという形を取ることになった。しかし特に家族の間でその点、異論はなかった。

私は早期退職という思い切った手段を取ることに、まず家族の反対にあうことも覚悟はしていたが、自分がよほど仕事で苦しい様子を見せていたのを理解してか、妻も息子も何も言わなかった。「自分がいいと思う道を選べばいいんじゃない」と妻は言ってくれたことが無性に嬉しかった。家族が皆が皆、節約が趣味ということもあって、当面の生活費に困ることはないが、今後の生活に不安ではないかと言われれば否定はできない。

高校の同級生につてを使って、なんとか地元での仕事もあてがってはもらえそうだが、当面年収は半減する。父親が手に寄りをかけて愛したこの実家の畑を耕して、自給自足もできる限りするだろう。なんとか食い扶持だけには困らないようにしたい。だが、後悔はなかった。あのまま東京に居続けていた方が後悔するに違いないことは目に見えていたから。

母をきちんと最後まで面倒を見た後はどうするかはまだ自分でも考えられないが、妻も妻で義父母の最後を看取ることができれば、また一緒に住めるように何か考えるだろう。それまでの間は、自分のやるべきことをやるつもりだ。ただ後悔のないように。


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