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1261_安全地帯「あの頃へ」
妻の部下が父と親友を相次いでガンで亡くして、落ち込んでいるという話を聞いた。
「結局、人間なんていつ死ぬかわからないわね」
「もし、明日死ぬってなったら、何したい?」「そうだな…」
さまざま思い巡らす。美味しいもので食べようか?好きな場所や思い出の場所にでも行こうか?
だが、本当にやりたいことをやろうにも、残り一日だったら残された時間がどうにも少なすぎる。それならば、もっとも単純だけど、もっとも重要なことを、けっして後悔のないようにする必要がある。
「私は、まず会社に事情を話して、その日はお休みを取るわ」
「真面目だね。僕だったら、会社に電話する気も起きないよ。どうせ死ぬのに」
「上司や同僚にお世話になってるし。お礼を言いたい。あなたも、何も言わないと心配して会社から電話かかってくるかもしれないし」
「じゃあまあ、調子悪いんで休みますくらいは電話しとくかな」
「そのあとは、私は実家に帰って両親と一緒に過ごしたい。あとは日立の海を見たい」
「奇遇だね。僕もすぐに地元の飛騨高山に帰るよ。そして母親のご飯を食べて。それで高山の街並みや川べりの景色を眺めていたい」
「お母さんに感謝の言葉を言わないの?でもあなたが明日死ぬだなんて聞いたら、お母さん卒倒しちゃうかな」
「そんなこと絶対に言わないよ。たた、ちょっと顔を見にきたんだって言って。じゃあね、元気でねって言ってそっと家を出るかな」
「切ないね」
「でも、それがいいな。母親をしんみりさせたくない」
「そもそも、本当にやりたかったことはなんなの。これまでも人生でやりたくても、できなかったこととか。それが死ぬ前に叶えられるとしたら」
「やりたくてできなかったことか」
思い当たることはある。死んだ父親が生きているとき、どうしても許せなくて父親に対して放った「⚪︎ね」とか暴言のことを、いまだに心の中で悔い続けている。結局、謝ろうと思った時すでに父親は意識がなく、臨終が近かった。
「どうしたの」
「いや、なんか」
涙が湧いてくる。母親に一目会いたいとか死んだ父親に謝りたいとか。自分が死ぬ前にやりたいといったことが、結局はそれなのかとじんとしてくる。結局のところ、それが自分という人間がタマネギの皮のように全て剥がされて、最後に残った芯というか本質的な部分なんではないかと思えてくる。
「ねえ、もちろんお互いが死ぬ時には、一緒にいるのよね」
「そりゃ、そうさ。そばで目をつむってくれるかい」
「もちろん。愛してるわ」
安全地帯の「あの頃へ」という歌を思い出した。本当にとてもいい歌だ。