896_Bob Dylan「Blood On The Tracks」
「ねえ、さっきの曲聴かせて」
「さっきのとは?」
「ラルフローレンの店でかかっていた曲」
「ああ、ボブディランね」
僕はBoseのポータブルスピーカーのスイッチを入れて、bluetoothに切り替えた。ピロっと切り替わる音がして、曲がかかる。ボブディランのMr.Tombourine man。店でかかっていた曲を僕が鼻歌で歌っていたから、妻から「知っている曲?」と聞かれたので、Bob Dylanだよと返したら、ふーんというリアクションで特段興味がないのだと思っていた。
僕は赤ワインも飲み干した。妻もポテトチップスをつまみに曲に聞き入っている。
「いい曲よね」
「ああ、いいよね、Dylanは」
「でも、どういう歌なの?」
「さあ、よくタンバリンでも打っていたじゃないのか、自分で」
ああ、我ながら適当なことを言うもんだ。大体、英語歌詞の意味なんて理解していないのに、メロディとフィーリングだけで「いい曲だね」とかのたまわっている。だが、あのDylanだ。そんな適当な歌であるわけがない。便利なことに、最近はApple Musicでも曲の歌詞がすぐにわかるようにできている。二人でぼーっとしながらスマホの画面を流れていく曲の歌詞を眺めていた。
なあ、タンバリンマンよ、僕のために歌ってくれよ
まだ眠くなんかないし、行くあてなんかないんだよ
なあ、タンバリンマンよ、僕のために歌ってくれよ
やかましい音が鳴る朝に、君についていくことにするよ
「ええっと、で、何が言いたい曲なの、これは」
「だから、タンバリンマンに曲を歌ってもらいたいんじゃないかな」
「いや、サビはそう言っているのはわかるんだけど。てか、タンバリンマンっていうのは、いったい誰なの??単にタンバリン叩いているだけの人じゃないんでしょ」
「タンバリンマンってのはね、それはつまり、Dylanの中の想念の存在であって…」
「あなたも、わかってないでしょ」
「うん」
「ちょっとイカれた人なの?この人って。アメリカの大御所で北島三郎みたいな人なんでしょ」
「北島三郎ではないと思うけど、まあ誰でも知っているよね。たぶん村上春樹みたいなもんなんだよ。なぜか人気はあるけど、とりあえずなんか意味わかんない的な」
自分で言ってて、なんか滑稽になってきた。妻にDylanの素晴らしさを訥々と伝えたいのだが、自分には彼の詩について含蓄のある言葉もなにも出てこなかった。
昔、ヒッチハイクして乗せてもらったおっちゃんのカーステレオからずっとBob Dylanが流れてきて、「好きなんですか?」って聞いたら、頼んでもないのに、目的地までの2時間延々とDylanの話を語ってくれた。その時にDylanの歌詞は深いということを聞かされたのだ。
そうだ、Dylanは決してそんなチンケなもんじゃないはず、なんてったって村上春樹でも未だに取れないノーベル文学賞を受賞するほどアメリカの国民的シンガーなんだ。(別に僕は村上春樹のアンチでもなんでもない)
その後、ネットで「Bob Dylan タンバリンマン 誰」で検索しても、適当な歌詞の和訳のページしか出てこなかった。「タンバリンマンはDylanの中で、彼の中で現実と虚構がごっちゃになった存在」であるのではないか、という事がもっともらしく論じられている。
待ってくれ、Bob Dylanはノーベル文学賞を取るほどの存在だろう?それが、自分の歌の歌詞の中にそんな幻のような曖昧な存在を登場させて、それが名曲として世界中のファンにその解釈について語り継がれるって、いったいどんな心境なんだろうか。
自分も朝起きた時に、意識が夢とまだ数珠繋ぎになっているためか、「あれ、俺ってこの世界の住民だっけ?確か、違う世界で魔王と戦っていたはず…」という気分になる。タンバリンマンもDylanが夢の中で違う世界で会った住民なのではないか。
そう考えると、詩や創作の中にたまに出てくる意味のあるのかわからないものや無意味なシーン、まったく物語の伏線に絡まない「これって必要?」って思うセリフやキャラクター、だいたいが説明がつくのではないか。タンバリンマンも村上春樹の羊男も、どうやら意識と半分地続きの別の世界から紐づかれていたのではないか。
そんな風に歌の歌詞に合わせて深い深い思索に耽っていると、妻から他の違う曲も聴きたいと言われた。
「じゃあ、これはどう」
「なんて曲?」
「Shelter from the Storm そうそう、これなんかいい歌なんだよね。特にサビがさ」
”こっちへ来なさい”
彼女はそう言った
”嵐からの隠れ家を貴方にあげるわ”
「どういう意味?」
「これは、たぶん…。エロい意味かな。私が貴方の隠れ家になってあげるわ的な」
「違うと思う」
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